親鸞聖人の誕生日は5月21 日|親鸞聖人はどんなことを教えられたのか
たくましさの根底にある教えとは?
5月21日は、親鸞聖人のお誕生日。
親鸞聖人は平安末期から鎌倉時代にかけて生き抜かれた方です。
その90年の生涯は波乱に満ちたものでした。
明治の文豪・夏目漱石は、こう言っています。
「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」
親鸞聖人のたくましい生きざまに憧れる人は各界に広がり、今日も多くの人にたたえられています。
これまでにも映画やドラマ化され、時代を超えて多くの人を魅了しています。
その魅力はどこから生み出されるのでしょうか。
親鸞聖人の教えを聞いてみましょう。
はかない人生を明るく生きるには?
親鸞聖人の人生は、始まりから平穏ではありませんでした。
4歳でお父様、8歳でお母様を亡くされ、いつ消えるとも知れない命の火、と知らされた聖人は、
「次は自分の番。死ねばどうなるのだろう。こんなはかない人生、なぜ生きるのか」と、わずか9歳で仏門へ入られました。
その時、詠まれた歌は有名です。
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
9歳の親鸞聖人が、得度を願い、比叡山の座主・慈鎮和尚を訪ねると「明日、得度しよう」と言われた。
その時、聖人がしたためられたと伝えられています。
「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。明日の命を誰が保証してくれましょう。
明日といわず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」
いつ終わりが来るかもしれない人生だからこそ、悔いなく、明るい心で生き抜きたいと願うのは、聖人だけではないでしょう。
東日本大震災では、引き籠もりだった若い男性が惨禍を体験して「自分は死ぬかもしれない。でも、このまま死にたくない、何かしなくてはと思ったんです」と、引き籠もりを脱して被災地復興に動き出したといいます。
運動部に所属する中学生がこんなTシャツを着ていました。
「後悔しない未来のために 今に全力を注ぐ」
「後悔先に立たず」
未来に後悔しないように、誰もが「一日一日を大事に、今できることを精一杯やろう。未来は現在が作るものだから」と言います。
後悔あとを絶たず!?
ところがそう思って皆努力するのですが、年を重ねると、どう頑張っても、何を選択しても後悔あとを絶たず。
”あ~ァ、人生に後悔は付きものだ、悔いのない人生なんて結局ムリだよな”とあきらめに似た気持ちになりがちです。
取捨選択の連続が人生ですから、選ぶと同時に、何かを捨てていく。
うまくいけば、選択がよかったと喜べますが、悪い結果が来ると、「あの時の、選択は間違っていた」と、捨てたものを惜しみ、悔やむ。
「どうせ後悔するなら、何もせずに後悔するより全力尽くして後悔したほうがいい。後悔上等」と、前向きに捉えることもできるでしょう。
しかし必ず後悔すると分かっていて、本当に今、全力尽くせるでしょうか。
明るく生きるために死に目を向ける
よくよく考えてみれば、生きるとは無常(死)との闘いです。しかも必ず負ける闘いといえないでしょうか?
日々の新聞折込チラシや、テレビ、インターネットの広告には、あまたの健康食品やアンチエイジング商品があふれています。
あれだけの広告を出すのは、買う人があるからで、健康でいたい、年老いるのはイヤ、死にたくないと、老いや死と皆必死に闘っているのです。
学問を研究し、政治や経済、科学、医学などを進歩発展させるのも、長く快適に生きられるようにとの努力です。
体によいものを食べ、運動をして健康を維持する、一人では生きられないから皆と協力して共同体をつくり、法律などを整備して生きていく。これら人間の営みは全て、生きるための、言い換えれば死を遠ざけるための懸命の工夫です。
しかし、死は万人に必ずやってくる。
日本では一日平均3500人以上が亡くなっているといわれます。
いつ、その中の一人になるか分からない。
今日までの健康が、明日の安全を保証してはくれません。
やがて訪れる人生の終末に、「オレの人生、何だったんだ」「無意味な生涯だったなぁ」と悔やむほどの悲劇はないでしょう。
実は私たちは、そんな大問題を今、抱えながら生きているのです。
死のことは暗くなるから誰も考えたくはありません。しかし、未来が暗いと、現在も暗くなる。
未来に闇を抱えたままで、現在を心底、明るく生きることは不可能なのです。
汚いからといってトイレは不要か
例えれば、こうもいえましょう。
きれい好きな友人がおしゃれな家を建てた。
今日は友人の新築祝い、みんなで楽しくパーティーしようと思ったが、その家にはトイレがなかった。
「なんでトイレ作らなかったの?」
「汚いじゃん。オレの家には不要だよ」と言われて、皆あきれて帰ったという。
そんな家では、どんな山海の珍味も安心して味わえないし、ワインも楽しく飲めないでしょう。
飲食したら、必ずトイレに用事ができるからです。
思う存分おいしいものを食べて楽しめるのは、家の中にいつでも安心して用を足せるトイレがあるからです。
同様に、人生を本当に楽しめるのは、必ずぶち当たる死の問題に向き合い、解決して「生きてよし、死んでよし」の大安心になってこそ。
生死は一如、紙のウラ表のようなもの。
死を無視して、生の本当の充実はありえないのです。
この人生の最大事が解決されれば、その他の問題は小事でしかありません。
山より大きいイノシシはいない
山でイノシシに襲われるのではと心配している新米猟師に、ベテラン猟師がこう励ます。
「安心しろ。山よりでっかいイノシシは出ないから」
怖いと言っても、山より大きなイノシシはいないと言われると、「なるほどそうだ、恐れるに足らぬ」と思えてきます。
人生にはさまざまな難題が起きますが、死ぬ以上の大問題はないから、仏教では生死の一大事といいます。この一大事と比較すれば、この世のどんな問題も小事となりましょう。
生死の一大事の解決ができさえすれば、他のことが未完成に終わっても、人生そのものに、全く後悔はありません。
生まれてきた目的を果たした大満足があるからです。
逆に他のどんなことで成功を収めてみても、人生の宿題ともいえる生死の一大事が解決できないまま残っていたら、大後悔を残すでしょう。
「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候」(御文章)
生死の一大事を解決しなければ、必ず後悔のみで人生が終わってしまいますよ。心に刻んでおきなさい、と蓮如上人は仰っています。
たくましき聖人の源は
親鸞聖人は、29歳の時、生死の一大事を解決され、”わが人生に悔いなし”の絶対の幸福に雄飛された。
それから90歳で亡くなられるまで、「おーい!みんな、人生にはこんな素晴らしい世界があるぞ、広大無辺で、自由な世界だ。早く生死の一大事を解決し、変わらない絶対の幸福になりなさいよ」と叫び続けられました。
その心の風光をこう仰っています。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かんだ」(教行信証)
”暗い海の底に沈んでいた親鸞が、光明輝く広い海に浮かんだぞ。こんな楽しい人生が開けるのだ”
たくましき親鸞聖人と多くの人が称賛する源は、まさしくここにあったのです。
聖人のご生誕を祝うのも、こんな幸せを教えてくだされた方だからです。
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