「ありがとう」の語源は仏教にある?|「ありがとう」は仏教の「有り難し」から
誰かに何かをしてもらったとき感謝の気持ちを込めて「ありがとう」と言います。
「ありがとう」と言われて嫌な気持ちになる人はいないでしょう。
「ありがとう」は感謝の言葉ですが、漢字で書くと「有り難う」です。
「有る」ことが「難しい」と書かれていますが、なぜこれが感謝の意味になるのでしょうか。
それは語源である仏教のたとえ話を知ると納得できると思います。
「ありがとう」は相手も幸せにする
他人から何かしてもらったとき、私たちは自然に「ありがとう」と言います。
他人からの気遣いに対する感謝の言葉です。
「この世で最も不幸な人は感謝の心のない人である」
と言われます。
何をしてもらっても、当たり前と思い、感謝の心がなければ、不平不満ばかり出て、幸せを実感することはできません。
感謝できる人が幸せなのであり、その感謝を「ありがとう」という言葉で表すと、相手も「喜んでもらえてよかった」とうれしくなります。
これを仏教では「自利利他(じりりた)」と言います。
自利とは自分の幸せ、利他とは他人の幸せ。
自分の幸せがそのまま他人の幸せになり、他人の幸せがそのまま自分の幸せになるということです。
「ありがとう」という5字は、不思議な働きがあります。
この「ありがとう」の語源は、実は、お釈迦さまのお話にあったのです。
「ありがとう」の語源『盲亀浮木のたとえ』
仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう)に「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」と言われるたとえ話があります。
ある時、釈迦が、阿難(あなん)という弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねた。
「大変、喜んでおります」
と阿難が答えると、釈迦は、次のような話をしている。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には、一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は、風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」
阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」。
「絶対にないと言い切れるか」「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と、釈迦は教えている。
「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、それほど難しいことなのです。
仏教では、人間に生まれてきたことは大変、喜ぶべきことであると教えられています。
「他人から何かしてもらうことは、めったにないことなんだよ、有り難いことなんだよ」というところから「有り難い」、それがくずれて「有り難う(ありがとう)」となりました。
私たちは、一人では生きていけません。
多くの人のおかげで生きています。
今日も、誰かに「ありがとう」と言ってみてはいかがでしょうか。
まとめ
「ありがとう」の語源は仏教の『盲亀浮木のたとえ』にあり、仏教では人間に生まれることは「有る」ことが「難しい」、「有り難い」ことだと教えられています。
ここから他人から何かをしてもらえることは「有る」ことが「難しい」、「有り難い」こと、「ありがたいことです」となり、「ありがとう」となりました。
仏教で、人間に生まれてきた意味について、どう教えられているのでしょうか。
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