お釈迦様物語|ささいな行いもおろそかにできぬ|多根樹の不思議
お釈迦様物語 小さなタネをおろそかにできぬ
貧しい村に多根樹(たこんじゅ)という大木があった。数百人が遊んでも余るほど、思い思いに伸ばした枝葉の下は広い。その横で一人の女が、考え事しながら、ぼんやり巨木を眺めていた。
“貧乏はもとから。慣れっこよ。でもこのところの暮らしにくさは何なの?私ら夫婦だけなら何をしても凌いでいける。ただ子供がひもじい思いをするのは勘弁してほしいわ。私が子供の頃は、こんな悩みなかったのに。
ああ……どうしてこんな思いまでして生きなければならないのかしら”
広げた枝葉を自ら支えるように、大樹は枝を地に伸ばす。枝は幹となり、大地に根を張る。その周りを、羽虫がしきりと飛び交っている。
“あの羽虫にでも生まれ変われば、いっそ苦しまなくてもいいのに”
とりとめもないことを考えていると、人の気配がして我に返った。向けた視線の先に、見掛けない出家の一行が近づいてくる。
“そうだ、出家の方に尋ねたら、何か答えが得られるかしら……”
一行を率いているのは、立ち居ふるまいが常人ではない尊い方と見受けられる。女は駆け寄ってひざまずき、合掌礼拝した。その方は釈迦牟尼(しゃかむに)と名乗られた。早速、悩みを打ち明けると、慈愛に満ちた返答。心が明るくなるのを感じた彼女は、この方からもっと教えを受けたい。何か差し上げねば、と布施心を起こし、お釈迦様を自宅に招待した。昼食のために用意した「麦こがし」を施そうと考えたのである。
妻がたくさんの修行者を引き連れて帰ったので、夫は驚いた。
聞けば、貧しい身空で彼らに布施をするのだという。一行の長らしき出家は釈迦牟尼という。最近、各地を巡って教えを説いているのだという。
どんな出家か、夫はよく知らなかったので、その言動に注意を払っていた。
妻が鉢に麦こがしを盛って差し出すと、お釈迦様はこう言われた。
「この女は今の尊行によって、やがてさとりを開くであろう」
夫は、なぜか猛然と腹が立ち、お釈迦様に食ってかかった。
「そんな出任せ言って、妻に麦こがしを出させよって。取るに足らぬ布施で、そんな果報が得られるものか」
お釈迦様は静かに言われた。
「そなたは世の中で、これは珍しいというものを見たことがあるか」
“いきなり何だ”。男は戸惑いつつも、お釈迦様の問いかけに答えを探し始める。
村の多根樹を思い出した。
「ああ、それなら、あの多根樹ほど不思議なものはない。一つの木陰に五百両の馬車をつないでも、まだ余裕があるからな」
「ほう、そんな大きな木なら、タネはひき臼ぐらいはあるだろう。それとも飼い葉桶ぐらいかな」
お釈迦様の問いに、男はすかさず、
「とんでもない。そんな大きくはないさ。ケシ粒の四分の一ほどだよ」。
「そんな小さなタネから、あんな大木になるなんて、誰一人信じないね」
お釈迦様の言葉に、男は大声で反論した。
「誰一人信じなくとも、オレは信じている」
ここでお釈迦様は言葉を改められた。
「麦こがしのような小さな善根でも、やがて強縁に助けられ、ついにはさとりを開くこともできるのだ」
当意即妙の説法に、自分の誤りを知らされた夫は、直ちに非をわびた。
夫婦そろって仏弟子となったのである。
*麦こがし……大麦を炒って焦がし、臼でひいて粉にしたもの
私たちは、こんな小さな行いをしても、何も変わらないと思うことがあります。しかし、場合によっては、小さな行いが、ものすごく大きな結果を生み出すこともあります。
小さな行いもおろそかにせず、悪いことをやめて、よい行いに励んでいきましょう。
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