大切な人を亡くされたあなたへ|仏教が教える真の人生の意義とは何か(前)
無常を観じ、人生の意義や自身の未来を思うのは、まことに人間らしい心だと仏教では教えられます。
「あの子が身をもって導いてくれた」愛息との突然の別れ
Y.Sさん(女性)の話
十年前、最愛の子息を十五歳で亡くしました。
「今でも毎日、息子のことを思っています」
と述懐する別れとは どんなものだったのでしょうか。
―――――
異変は突然訪れた。中学三年の秋 部活動を引退し、受験を目前に控えた長男は原因不明の熱が続いていた。
数日前の遠足の疲れでも残っているのか。
近所の医院を受診すると すぐに金沢の大学病院を紹介された。
それほど重症とは思えないし、サッカーで鍛えていたから大したことはないはず。
だが検査後、すぐに入院を促す連絡が来る。血液検査の数値が異常に高いと医師は難病とすぐ分かる病名を告げた。
それからは、アッという間の出来事だった。
入院して二日目まで意識があったが、その後昏睡状態に。
心臓の鼓動は徐々に弱まり、心の準備も最後の会話もできぬまま、十日後息を引き取った。
「なぜもっと早く気づいてやれなかったのか」
悔やみ切れず、自らを責める。
勉強もサッカーもあんなに努力し、頑張っていたのになぜこんなことに……
深い悲しみに暮れた。
せめてもの供養にと毎日読み始めたのが親鸞聖人の『正信偈』だった。
仏縁深い家庭で祖母の勤行の声を聞いて育ったからだろう。
息子を思い、そうせずにおれなかった。
心の傷は癒えぬまま
数年後、今度は自身が病に倒れた。
安静を余儀なくされ、病室で過ごす毎日。
心は優れず “やがて散りゆく命、何のために生きていくのだろう”の問いが胸につかえていた。
真の人生の意義とは
「夢の世を あだにはかなき 身と知れと 教えて還る 子は知識なり」
愛し子に先立たれた悲嘆を勝縁に人生の意味を問い、仏法を求めて救われてみれば、夭逝のわが子は善知識であると歌っています。
古来 逆縁に泣く親は数知れず
日本を代表する哲学者・西田幾多郎もその一人でした。
『我が子の死』という随筆に愛娘との永久の別れが述べられています。
「今年の一月
余は漸く六つばかりになりたる
己が次女を死なせて(略)
この度生来、未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。(略)特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば人生ほどつまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である。
死の事実の前には生は泡沫の如くである。
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる」
では、真の人生の意義とは何か。
その答え一つを説かれたのが、実に仏教なのです。
室町時代の蓮如上人が書かれた『白骨の御文章(御文)』に学びましょう。
まずは全文を拝読します。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて 桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
(御文章五帖目十六通)
後半へ続きます。
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