お釈迦様物語 私にとって本当に大切なものは何か気づかせる三人の妻の話
「昔、ある金持ちの男が三人の妻を持って楽しんでいた」
感動を手繰り寄せるように、目を閉じて語る修行者の声だけが響く。それはかつて仏陀・お釈迦様から聞いたという例え話だった。
商売人に出家は用事のない相手。だからその修行者と出会ったときも商人は、旅先の暇つぶしのつもりで会話を始めた。
年若い僧だが、徳が感じられる。
同行して語り合ううち、出家の人柄にすっかり心酔した商人は、彼の師の仏にも大いに関心を抱く。
夕食のときには抑えられなくなり、思わず尋ねた。
「あなたの師・お釈迦様とはいかなるお方か、その教えとは?」
修行者の表情は一変した。その真剣さに、何か尊いものを感じて商人は、襟を正して向き直る。語られたのはこんな話だった。
「昔、ある金持ちの男が三人の妻を持って楽しんでいた。
金持ちは第一夫人を最もかわいがって、寒いと言ってはいたわり、暑いと言っては心配し、贅の限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。
第二夫人は第一夫人ほどではないが、種々苦労し、他人と争ってまで手に入れたので、いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
第三夫人は寂しいとき、悲しいとき、困ったときだけに会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その金持ちが重い病で床に伏すようになる。刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、“ぜひ死出の旅路の同道を”と頼んだ」
修行者の話に刺激されてか、商人は自分の来し方を振り返る。
“仕事こそ人生”と長い間、商売の旅に生きてきた。宵越しの金を持たず、妻子や父母兄弟とも離れて暮らす身。愛着とか未練には最も縁遠いような自分に、この金持ちの心境は正直、分からない。
“なのになぜ、他人事のような気がしないのだろうか?”
考えるうちに彼は、ふと気がついた。死だ。
自分もこの金持ち同様、いずれ必ずこの世を去らねばならぬ。
何人にも訪れる確実な未来……。それなのに今まで、死ぬことなど考えもせず生きてきた。
言いようのない不気味さが胸を覆う。知りたくはなかったが、聞かずにもいられない。
人として知らねばならないことと悟った。修行者の話は続く。
「“ほかのこととは違い、死の道連れだけは、お受けすることはできません”
すげない第一夫人の返事に、男は絶望の淵に突き落とされた。寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで第二夫人に頼んでみた。
“あなたが一番かわいがっていた彼女でさえ、イヤとおっしゃったじゃありませんか。私もまっぴらご免でございます。あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。私から望んだのではありません”
案の定、第二夫人の返事も冷たい。男は恐る恐る、第三夫人にすがった。
“日ごろのご恩は決して忘れてはいませんから、村外れまで同道させていただきましょう。しかし、その先はどうか堪忍してください”
結局、三人ともに突き放されてしまったのだ」
ここまで話し、穏やかな表情で出家は、
「これは例えだが、何を表していると思われますかな?」
だが男は答えない。
「金持ちは我々人間のこと。第一夫人は肉体、第二夫人は金・銀、財宝、第三夫人は父母、妻子、兄弟、朋友などを例えられたものだ。
生あるものは必ず死に帰す。
臨終には、今まで命にかえて大事に愛し求めてきた三人の妻と別れ、一人、旅立たねばならぬ。
後生へ踏み出すその時に、何かあて力になるものがあるだろうか?
生涯かけて求むべきは何だったのかと、問わずにはいられないはず。
わが師・お釈迦様は、永遠に崩れぬ幸福のあることを、明らかになさっているお方なのです」
沈黙の時が流れた。
やがて、二人はどちらからともなく食事を口に運ぶ。
“この修行者に随って、仏陀の元に参じよう”
商人はそう心に決め、黙々と食べ続ける。柔らかな灯火が、食卓を照らしていた。
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