「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の意味
「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」とは仏教書の中でも特に有名な言葉です。
「善人でさえ往生できる。ましてや悪人なら尚更だ」という普通の考え方とは真逆の言葉なため、一度聞いたらなかなか忘れられない言葉です。
普通なら「悪人なおもって往生を遂ぐ いわんや善人をや」となりそうなものですが、どうして「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」と言われているのでしょうか。
(質問):「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」と聞いたことがあるのですが、どんな意味でしょうか。
(解答)
「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」、これは歎異抄3章のお言葉です。
歎異抄とは
歎異抄は、仏教の本の中で一番読まれている書籍で、学校の教科書にも出てきます。
どうして歎異抄が知られているかというと、まず第一に有名な親鸞聖人が言われたことがそのまま書かれているので、親鸞聖人の教えを知りたい人が読みます。
また、大変な名文で書かれていますので、歎異抄は親しみ知られています。
そんな有名な歎異抄ですが、親鸞聖人の書かれたものではなく、著者は不明です。
歎異抄の構成
歎異抄は1章から18章まであります。1章から10章までは、親鸞聖人が、ある時、ある人に、仰ったことが、そのまま書かれています。
11章から18章までは、親鸞聖人がお亡くなりになった後、親鸞聖人が教えられなかったことを、親鸞聖人が教えられたと言いふらす者が現れ、それを歎いて正されたものです。ですから、「異なるを歎く」という歎異抄の名前からいえば、11章から18章がその部分にあたります。
1章から18章の中で多くの人に知られているのが3章です。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」しかるを世の人つねにいわく「悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」この條、一旦、その謂あるににたれども、本願他力の意趣に背けり。その故は、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心、かけたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心を廻して、他力をたのみ奉れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。煩悩具足の我等は、いづれの行にても、生死を離るること、あるべからざるを憐れみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏の為なれば、他力をたのみ奉る悪人、もっとも往生の正因なり。よって「善人だにこそ、往生すれ。まして、悪人は」と仰せ候いき。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
往生とは、本当の幸せになることです。
「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる。」
の発言には多くの人が驚きます。「悪人はなおさら幸せになれる」のなら、悪いことをやった方がいいのかと疑問も出てきます。
このお言葉の後には
しかるを世の人、つねに曰く「悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」
「世の中の常識は『善人はなおさら幸せになれる』のだ」と続きますので、常識知らずで言われていることではないことはハッキリします。ですから「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は、何か深いことを言われていると分かります。
「悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」この條、一旦、その謂あるににたれども、本願他力の意趣に背けり。
「悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」、それが正しいように思いますが、本願他力の心に反していると言われています。
「悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや」が本願他力の心に反しているということは、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は本願他力の心であるということです。ということは、本願他力の心がわかれば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の意味がわかるということです。
本願他力とは、他力本願とも言われます。
(関連:「他力本願」の誤解と、ほんとうの意味とは?)
本願他力とは、阿弥陀仏の本願のことであり、仏教は、これ一つ、教えられていると、親鸞聖人は明らかにされています。
仏教、阿弥陀仏の本願の人間観と、法律、倫理道徳の人間観は違います。仏教で、善人、悪人とは、どんな人のことなのか。それがわかりますと、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の意味がスッキリわかります。
この歎異抄がアニメ映画になりました。映画のサイトはこちら。
歎異抄をひらく[映画公式サイト]
こちらに仏教の人間観を説明しています。
歎異抄は著書不明ですが、一番有力なのは親鸞聖人のお弟子の唯円です。
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