法然上人のご逝去|親鸞聖人との師弟愛
親鸞聖人は29歳の時、阿弥陀仏に救い摂られ、法然上人の門弟となられました。
しかし当時、繁盛する法然上人を妬んだ仏教各宗や権力者から弾圧が加わり、念仏布教は禁止、教団は解散。法然上人、親鸞聖人は共に流罪となり、法然上人は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ赴かれました。
寒さ厳しい越後での歳月を「一向専念無量寿仏」の布教にかけられた親鸞聖人の元に赦免の知らせが届いたのは数年後でした。
悲しきかなや愚禿鸞
早春の日差しの下、越後の人々と別れを告げ、親鸞聖人のご一行は一足先に京に戻られていた法然上人にお会いするために京へと向かわれます。
「生きて再びお会いすることはないと思っていたが、法然上人からまた真実の仏法をお聞かせいただけるのだ」と足取りも軽く歩んでいくと、
「親鸞どのー。親鸞どのーっ」
と呼ぶ声が。
法然門下の法友・智明房(ちみょうぼう)が駆けてくる。
再会の挨拶を交わし、法然さまのご様子に話が及ぶと、途端に智明房の顔が曇る。彼は重苦しい表情で告げた。
「親鸞どの、実は……。実はお師匠さまは…先月、京都・大谷にてお浄土にお還りなさいました」
あまりのことに親鸞聖人は、茫然自失。膝からくずおれ、バッタリと大地に手を突き、
「お師匠さまああぁ」
悲痛な叫びとともに、人目もはばからず慟哭なされる。
在りし日の恩師の面影が、親鸞聖人の脳裏に浮かんだ。
やがて親鸞聖人は顔を上げ、決然とおっしゃる。
「都行きは、やめる。お師匠さまのおられない京都には、親鸞、何の未練もない。東国へ行く。関東で、阿弥陀如来の本願を、力一杯お伝えしようではないか」
驚く弟子の西仏(さいぶつ)房、蓮位(れんい)房に、
「すべての人と誓われている、弥陀の本願。関東の人々にも伝え切らねばならない」
と宣言され、関東へ旅立たれたのです。
流刑後の法然上人
親鸞聖人の師・法然上人は、75歳で四国の土佐(高知県)へ流刑となられました。
ところが、すでに高齢であったこと、上皇の一時的な怒りによる処罰であったこと、貴族にも信奉者が多かったことから、配所に到着される前に赦免されたといわれます。
それから法然上人は、摂津(大阪府)にとどまられ、弥陀の本願を伝えられました。
親鸞聖人の元に赦免の報が届いたころ、法然上人も京都に戻られましたが、ご高齢と配流によるお疲れのため、まもなく病床に就かれ、建暦2年、80歳でお亡くなりになりました。
法然上人への崇敬の気持ち
だれよりもお慕いし、尊敬する法然上人と、今生の別れを余儀なくされた親鸞聖人の悲しみは、余人の想像をはるかに超えていたに違いありません。
いかに法然上人を崇敬されたか。親鸞聖人はこう仰せです。
昿劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし (高僧和讃)
(意訳)
法然上人のご教導によって親鸞、果てしない過去から知ることのできなかった阿弥陀如来の誓願あることを知らされた。もし法然上人に会えなかったら、人生の目的も、果たす道も知らぬまま、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたに違いない。親鸞、危ないところを法然上人に救われた。
どれだけ大事にしても80年か100年で滅びる肉体の病でさえ、救ってくだされた医師には感謝してもしすぎることはありません。
また、生んで育ててくれた両親の恩は大変重いものですが、与えられた命を真に生かせず、自殺していく人の、いかに多いことでしょう。
世界一の長寿を誇るこの国の空の下、毎日90人余りが自ら命を絶っているのが悲しい事実。
何のために生まれ、苦しくとも生きるのは何のためか。
生命の尊厳も歓喜も知らず、恨みのろいの人生にあって、どんな苦難も障りとならぬ、無限に明るい幸福に生かす教えを伝えられる明師との出会いは、何にも勝る喜びです。
また、そのご恩は、親の恩にも勝るとも劣らぬ、深くて重いものであることもお分かりでしょう。
そんな法然上人との別れを乗り越えられて親鸞聖人は、恩師が命を懸けて貫かれた「一向専念無量寿仏」のさらなる宣布を誓い、踵を返し関東へと、新たな旅を始められるのです。
続き
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