親鸞聖人関東布教・日野左衛門の済度(2)
40歳を過ぎ、関東で布教をされていた親鸞聖人は、ある年の11月下旬に常陸(茨城県)東北部にご布教に出かけられました。
しかし雪が降って視界が悪くなり、日が暮れて道に迷われたところ一軒の民家を見つけますが、一夜の宿をお借りしたいと頼むと、家主の日野左衛門に邪険に断られてしまいました。
何とか彼に仏法を伝えたいと思われた親鸞聖人はその家の門下で、石を枕に雪を褥(しとね)に休まれるのでした。
仏法嫌いな日野左衛門
吹きすさぶ雪の中へ親鸞聖人の一行を追い出した日野左衛門の夢の中に、光に包まれた人が現れ、こう諭しました。
「日野左衛門。今、汝の門前に尊い方が休んでおられる。直ちに参って教えを受けよ。さもなくば、未来永劫、苦患に沈むぞ」
あまりに克明な夢に驚いて飛び起きると、妻・お兼が気配を察して起きだす。
「あの人たち、どうしたのかなあ」と心配になった二人が玄関を開けて確かめると、なんと門の下に、雪まみれの親鸞聖人の一行がおられるではないか。急いで家の中へ招き入れ、火をおこしました。
温かい粥で一息つかれた親鸞聖人は改めて名乗られ、日野左衛門に語られます。
「こんなことを尋ねては失礼だが、ゆうべ『坊主は嫌いだ』と言われていたようだが……」
彼は迷いながらも、心中をこう吐露しました。
「あー、あれはだな。葬式や法事で訳の分からんお経を読んだり、たまに説教すりゃ、地獄だの極楽だのと、死んでからのことばっかり言って金を持っていく。そんな者、おれは大嫌いでなあ」
静かにうなずかれる親鸞聖人。日野左衛門は続ける。
「だってそうじゃねえか。やつらのやってることは、墓番と葬式だ。死んだ人間の後始末ばかりだ。どうして生きている人間に、どう生きるかを教えねえんだ。それが坊主の役目だろう。おれたちゃ毎日どう生きるかで、朝から晩まで一生懸命なんだ。その、どう生きるかを少しも教えねえで、汗水流して稼いだ物を、持っていきやがる……」
歯に衣着せぬ非難を妻のお兼がいさめる。親鸞聖人は日野左衛門に深く同感されたあと、こう言われました。
「ところで日野左衛門殿。どう生きるかも大切だが、なぜ生きるかはもっと大事だとは、思われませんか。どう歩くかよりもなぜ歩くかが、もっと大事ではありますまいか」
日野左衛門は一瞬虚を突かれて戸惑いました。
「どう生きる」と「なぜ生きる」
日野左衛門はここで、葬式や墓番ばかりに励む僧侶に、“どう生きるかを教えていない”と批判を向けています。
「苦しい毎日、どう生きればいいのか」
お釈迦様の教えには、その答えが教えられているはず。それを知りたいのに説かないからだ、と彼は思っています。
現代でも、彼のこの考えに共感を示す人は多いのではないでしょうか。
食べるために働けども、少しも楽にならず、失業率が高まって働くことさえできない人もある。そんな現実に打ちのめされ、どう生きれば、と求める私たちに、生きる指針を示す人があってほしい、と。
親鸞聖人はそんな思いに同意されたあと、驚くべき言葉でこう切り返されています。
「ところで日野左衛門どの。どう生きるかも大切だが、なぜ生きるかは、もっと大事だとは思われませんか?」
これは一体、何をおっしゃっているのでしょう。
日野左衛門の言う「どう生きるか」は手段であり、その先に目的がなくてはならない。手段は目的から出てくるものだからです。
私たちが歩くのは、
「通勤のため駅に向かう」
「友達の家へ遊びに行く」
「ブラブラ散歩する」
など、目的があってのこと。それで初めて、
「近いから徒歩で」
「急ぐから車で」
と、それを果たす手段が問題になります。
その目的「なぜ生きるか」が、果たしてハッキリしているだろうか。
「最も大事な目的を、知らずに生きてはいませんか」
と親鸞聖人は、すべての人に切り込まれ、これを、
「どう歩くかよりも、なぜ歩くかが、もっと大事ではありますまいか」
と換言されています。
この一言が日野左衛門の肺腑を貫き、心を一変させるのです。
仏法嫌いの理由を、僧侶が「どう生きるか」を説かないからだと言う日野左衛門に、親鸞聖人は、「どう生きるかも大切だが、なぜ生きるかはもっと大事ではないか」と思わぬことを突かれました。
ハッとして日野左衛門は聞き返します。
「なぜ生きる?」
「さよう。皆どう生きるかには一生懸命だが、なぜ生きるかを知りませぬ。のぉ日野左衛門殿。それだけ皆、一生懸命生きるのはなぜか。それこそ最も大事ではなかろうか」
ふと目をやると、火鉢の縁を一匹の尺取り虫が回り続けている。前へ前へと、懸命に歩む虫だが、愚かなその知恵では、自分が同じところを回っていることすら気づかない。やがて力尽き、火の中へポトリと落ちた。
心に何かが走ったのか、日野左衛門がうめくように言います。
「なぜ歩くかが分からねば、歩く苦労は無駄か。なぜ生きるかが分からねば、生きる苦労も、また無駄か。そうだ、オレは一生懸命生きることがいちばん良いことだと思っていたが、なぜ生きるかの一大事を忘れていたのか」
その時。
「それをハッキリ教えられたのが、仏法を説かれたお釈迦様なんですよ」
親鸞聖人の断言を日野左衛門は驚愕して聞きました。
「ええ、そんな教えが仏法?」
今まで知らなかったまことの仏法に触れ、日野左衛門の仏教観がガラッと転じました。
「苦しい人生、どう生きるか」と悩んでいた日野左衛門は、「それだけ皆、一生懸命生きるのはなぜか。それこそが大事ではないか」との親鸞聖人の啓蒙に目を開かれたのです。
流転輪廻の人生
火鉢の縁を回る尺取り虫は何を意味しているのでしょう。
これは、私たち人間の営みを比喩的に表されたものです。
輪を描く火鉢の縁は、いくら回っても終わらないキリも際もない道。
私たちの生活が食べて、寝て、起きて……と同じサイクルで続いていくようなものです。
とんちで有名な禅僧・一休は、これを
人生は食て寝て起きて糞たれて、子は親となる、子は親となる
と歌っています。
眠い目こすりながら電車に揺られて通勤し、クタクタに働いて、帰途に就く。
代わり映えのない毎日だから、昨日の晩、何を食べたか覚えていないこともあるほどです。
日々の楽しみといえば、夏の夜の冷えたビール、冬は温かい鍋物に舌鼓を打つといったささやかなこと。
春に花見をしながら「生涯あと何度、桜が見られるだろう?」と、時折、感傷的になっても長続きせず、再びつまらない日常に舞い戻り。
そうして若者が壮年となり、老いて、やがて人生の終幕となる。
人生のこの基本的なサイクルは、大統領からホームレスまで変わりません。
皆、一生懸命生きているのは何のためでしょうか。
火鉢の縁を際限なく回り続け、火中に落ちていく尺取り虫と何か変わるでしょうか。
このように、同じところをグルグル回り続ける悲劇を仏教で「流転輪廻」といい、これが苦しみ迷いの本質だと教えられます。
そんな人生、なぜ生きる。
苦しみ多き一生を、生命の歓喜で満たせるか、否か。
「輪廻の輪を離れて、迷いなき本当の幸せに救われる方法があるぞ。『なぜ生きる』の答え、人生の目的を、ハッキリ教えられたのが仏教であり、お釈迦様なのだ」
親鸞聖人は、声高らかに宣言されているのです。
(続き)
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