親鸞聖人関東布教・日野左衛門の済度(3)
仏法には「どう生きるか」が教えられていると思っていた日野左衛門は、親鸞聖人から
「『どう生きるか』も大事だが『なぜ生きるか』はもっと大事ではないでしょうか」
と言われ、ハッとします。
その「なぜ生きる」の答えが仏法に教えられていると知った日野左衛門は、親鸞聖人のお話に惹かれていくのでした。
阿弥陀如来の本願
日野左衛門は、親鸞聖人のご説法によって仏教観が一変していくのを実感しました。
それまでは「どう生きるか(手段)」ばかり求めてきましたが、「なぜ生きるか(目的)」が最も大事であり、自分はそれが分からずに苦しんでいたのだと気づきました。
そんな日野左衛門に親鸞聖人は、
「お釈迦様は仰せです。大宇宙には数多くの仏さまがおられる。それらの仏が、本師本仏と仰がれるのが阿弥陀如来です。阿弥陀如来は、無明の闇といって、すべての人々の苦しみの元である、後生暗い心を一念の瞬間で破ってくだされ、本当の幸せに救うと誓われている。これを阿弥陀如来の本願と申します」
と説かれます。
「阿弥陀如来の本願……」
「そうです。その阿弥陀如来のお約束どおり、本当の幸せになることこそが、なぜ生きるかの答えなのです」
親鸞聖人はここで、すべての人の生きる目的、なぜ生きるかの答えを明らかにされています。
それは〝苦悩の根元・無明の闇(むみょうのやみ)を、阿弥陀如来に一念の瞬間で破っていただき、絶対の幸福に救い摂られる〟こと。
これはどんなことでしょう。
親鸞聖人はまず、苦悩の原因を「無明の闇」と示されています。
これは「後生暗い心」ともいい、すべての人はこの心によって苦しんでいる、と教えられています。
「暗い」とは「この辺りの地理に暗い」「歴史に暗い」などと同様、分からない、知らないということです。
生ある者は必ず死に帰す。
私たちの100%確実な未来を「後生」といい、その一息切れた死後がハッキリしない心を、無明の闇、後生暗い心というのです。
平均寿命が延びたといっても、死ななくなったわけではありません。だれもが必ずぶつかる問題です。その死の準備はできているでしょうか。
すべての人は幸福を求めて生きていますが、現実は、思いどおりにならずに苦しんでいます。
その原因を、ある人は〝金がないから〟と言い、ある人は〝こんな者と一緒になったからだ〟と嘆いている。
多くは環境や周囲のせいにして、「お金がたくさんあったら……」「素敵な恋人や結婚相手がいれば」「やりがいのある仕事に就けたらいいのに」と願って生きています。
しかし、たとえすべてが思いどおりになっても、それらは生きていてこそ喜べるもの。その生の土台を根底から覆す死が、だれの未来にも待ち受けていますから、人生は例外なく不安に染まっているのです。
その不安の出所を無明の闇といいます。
この闇を一念の瞬間で破って、後生明るい心、大安心、大満足の幸福に救うと誓われているのが、本師本仏の阿弥陀仏なのです。
親鸞聖人は主著『教行信証』の冒頭に高らかに宣言されています。
無碍の光明(むげのこうみょう)は無明の闇を破する慧日(えにち)なり。
(意訳)
阿弥陀仏の本願は、無明の闇を破る智慧の太陽である。
「無碍の光明」とは何ものにも妨げられない(無碍)弥陀のお力(光明)のこと。無明の闇を一念でぶち破ってみせる、迷いの根っこを断ち切って、極楽往生間違いない身にしてみせる、と誓われる仏は、大宇宙広しといえども阿弥陀仏以外にはありません。
この弥陀の救いにあわせていただくために私たちは、この世に生を受けたのです。
平生業成
親鸞聖人から話を聞いた日野左衛門は問いかけます。
「本当の幸せ……それはいつなれるのだ」
「この身、今生、ただ今のことです」
この答えは、日野左衛門をさらに驚かせました。
この親鸞聖人の教えを「平生業成(へいぜいごうじょう)」といいます。
これは親鸞聖人の教えから出た言葉であり、浄土真宗の一枚看板です。
「平生(へいぜい)」とは、現在ただ今のこと。
仏教と聞くと、死んでからの夢物語ばかり教えられていると思い、「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っている人がほとんどです。
しかし仏教は、死後のことではない。生きている現在、ただ今のことを教えられているのです。
次の「業(ごう)」は、人生の大事業、生きる目的のこと。
「大事業」と聞くと、松下幸之助さんや、徳川家康の天下統一の事業を思い出すでしょうが、人生の大事業とは、何はなくてもこれ一つ、一人一人が人と生まれて果たさねばならぬ大事をいいます。
仏教を説かれたお釈迦様も、親鸞聖人も、生涯これ一つを教えていかれました。
それは、阿弥陀仏が必ず絶対の幸福に救うと誓われている。そのお約束どおりに絶対の幸福になることです。
しかも、それは死後ではない、現在ただ今、完成するのだ、と最後に「成(じょう)」の一字で表されています。
完成の「成」であり、成就のことです。
人生には目的がある。それはただ今、完成できる。だから早く完成しなさいよ、とのお勧めです。
ところがこう聞くと
「人生に目的などあるか」
「この世で助かるなんて考えられない」
と思う人も多いでしょう。
確かに、私たちが日々、必死に取り組み、高みを目指してしのぎを削っている政治や経済、科学、医学、学問、芸術、武道やスポーツなどには完成、卒業ということは聞きません。
これらは、「死ぬまで求道」といわれ、生涯、求め続けねばならぬ道なのです。
ちょっと聞くとこれは、立派で魅力的に思えますが、よく考えればおかしなこと。
安心、満足を欲して、私たちはさまざまなものを求めます。求めるのは、求まることが前提のはず。もし求まった、ということがなければ、一生、苦しみ続けねばならないからです。
「求まらなくてもいい。死ぬまで向上、求める過程が素晴らしい」といわれるような一時的な充実と、人生の目的達成の喜びとは全く異質のものなのです。
この人生の目的の厳存と、完成のあることを明らかにされた親鸞聖人の教えを「平生業成の教え」といい、それこそが世界の光といわれるのです。
(続き)
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