お釈迦様物語 世に三長者あり|家の長者・身の長者より心の長者たれ
お釈迦様の物語 世に三長者あり-青年と医師
青年は鼻を大きくふくらまし、早足でズンズン歩いている。
医師の家を辞して一町ほど、どうにも息苦しくなって立ち止まった。今聞いたことの衝撃が、息継ぎを忘れさせていたのだ。慌てて、大きく息を吐き、ようやく落ち着いて、青年は小躍りした。
“やった、やった。オレはついに生涯の道を見つけたぞ”
彼は貧家の長男。父母は子だくさんを養うため大いに働いたが、少ない稼ぎは手から口へ、すぐ食費に消えた。幼い弟たちはいつも腹をすかせてやかましく泣く。その声をうんざり聞きながら彼は、満足に食えないみじめさをかみしめた。どこにでもあった貧困から、彼は考えることを学んだ。
“人は多く金で苦労する。食うや食わずの生活はもうまっぴらだ。オレはきっと金持ちになって、家族の暮らしを楽にするぞ”
それには一日も早く独立したい。まずは学問、と十歳の時、手伝っていた仕事場の主人に泣きついて、読み書きのできる人を紹介してもらった。初歩の手ほどきを受け、その後は苦労して独学。十五で廃品集めの小商売を興し、毎日、足を棒にして民家を回った。捨てる寸前の家財道具を二束三文で手に入れ、それを修繕して儲けを得た。愚直に愛想よく、客の要望にできる限り応えるよう努力を重ねて三年。ようやく生活にもゆとりができて、弟たちにうまいものを食べさせられるようになった。
そのころ、ある金持ちと仕事のつきあいができた。たたき上げの成金で、“若いころは苦労した”が口癖。そんな自分と青年をダブらせていたのだろう。
「おまえの“まじめ”で“いちず”なところが気に入った」
と言っては彼をかわいがり、訪ねて行くたびに、屋敷の不要品をただ同然で譲ってくれた。不要品とはいえ、元はいい物だから売れば値が張る。利幅が大きく、青年の生活は大いに潤った。
成金には青年より二歳下の美しい娘がいた。青年と娘はなぜかウマが合った。はじめは親友のように接したが、やがて恋仲になる。すぐにそれは娘の父の知るところとなった。“親切な人だから、交際も認めてくれるだろう”の思いはあえなく裏切られる。金持ちはガラッと態度を変えた。
“飼い犬に手を咬まれたようなものだ”
人目もはばからず怒り散らす成金に、青年は戸惑った。家柄の違いとやらが、父親の理屈らしい。
当然、本音は別。まだまだ成り上がりたい男に、娘の結婚は出世への大切な切り札なのだ。それでも娘は食い下がったようだが、ある日突然、遠い町の金持ちの跡取りに嫁がされた。
次第を聞いた青年は、彼女の手のぬくもりが残る掌を握り締め、喪失感に打ちひしがれた。“金持ちになりたい。あの成金のように、毎日美味や珍味を食卓に並べ、ぜいたくな家具に囲まれて優雅に暮らしたい”とあこがれ、夢に向かって突っ走ってきたのが急にバカらしくなった。
娘へのあの仕打ちが幻想をすべてぶち壊した。
金持ちはそれだけで偉いと思っていたが、人は皆、自分の都合で動く生き物。しかも金や権力を手にするほど、身勝手さは度を増す。青年は幻滅した。
“一度仕事をたたんで、考え直そうか”
幸い蓄えが少しあったし、弟たちも成長して手がかからなくなった。両親も少し休めと勧めてくれる。青年は休息を選んだ。
“この機会に何かを学ぼう。生涯かけて打ち込めるものを探すんだ”
彼は思い立ち、自分探しに放浪することにした。
医師とは、ふとしたことから出会った。
旅の途中でその村に入ると、ある家が病人らしき人々であふれ返っているのに出くわした。ずいぶん繁盛している医者だ、と中の一人に尋ねると、
「ここの先生はただのお人じゃないぞ。今いる連中は皆、一文なしの貧乏人じゃが、先生はワシらから一銭も取らぬ。何とありがたいことじゃ」
病人はそう言うと、胸の前で合掌した。
この片田舎に、そんな慈悲深い医者がいたとは。にわかに関心を持った彼は、会って話がしたいと、病人がいなくなるのを待った。やがて人がはけ、病室をのぞくと、そこには柔和な空気が漂い、いかついが憎めない風貌の医師が一人、後片付けをしながら青年を奇妙そうに眺めている。
青年は臆したが、思い切ってここへ来た経緯を話した。慈医は黙って耳を傾ける。その包み込むような温かさに、思いの丈を吐露した青年は、“自分はこれからどうすればいいのでしょうか”
と自然に聞いた。医師は穏やかに言う。
「この世に三長者があるという。知っているかな?」
どこか懐かしい語り口に、青年はつい引き込まれていった。
「そなたは、世に三長者あり、と聞いたことがあるかな?」
聞き慣れぬ言葉に戸惑いつつも、医師のたたずまいや言動に信頼を寄せ始めていた彼は、どんなことだろうか、と関心を抱いた。老医者は続ける。
「これは、仏陀が教えられたことなのだが」
「仏陀?真理をさとったという方ですね?以前、聞いたことがあります。かつては釈迦族の太子であったという……」
「さよう。仏陀・釈迦牟尼じゃ。そのお釈迦様が、世に家の長者、身の長者、心の長者の三通りの長者がある、と教えていられるのだ」
身をのり出す若者を制するようにして、医師はゆっくりと床に腰をおろした。慌てて従い、青年は再び聞く体勢に入る。
「家の長者とは屋敷や家財、宝物や奴婢を多く持ち、物に恵まれている人のことだ。まあ、このあばら家とは正反対じゃな」
笑いで緊張がわずかに解ける。若者は親交のあった金持ちを思い出した。贅沢第一で他を蹴落としても成り上がりたい、と肉食獣のようにギラギラしていた。
娘と自分の交際を認めぬばかりか、彼女の意向を無視して遠くの富豪へ嫁がせてしまった。もちろん金持ちが皆、あんな傲慢だとは思わないが、愛娘まで踏み台にするのは理解しがたかった。
──甘い、甘い。だからおまえは成功できないのだ。
ふと、あの成金の声がしたような気がして、彼はひとり顔をしかめた。かつてはその放胆さにあこがれてさえいたのに、今となってはその言動は、ただの無神経にしか思えない。
そもそも、成功とは何だろう?金を多く得、立派な家屋敷に住まいし、地位を築き、名士といわれるようになれば、それで何もかも許されるのだろうか?
一方で、成金を非難している自分はどうだろう。確かにあの金持ちほど富への執着はない。
だが正直なところ、今も彼をうらやむ気持ちが少なからずある。住む世界が違うと思っているが、財欲が尽きたわけではなく、物の有る無しに依然としてこだわっている。
青年はだんだん、幸せの意味が分からなくなった。
「そなたも、家の長者を目指していたのであろう?」
その時、医師がさりげなく話を向けてきた。青年は、今考えていたことを言葉にしてみる。うまくは言えなかったが、老医はいちいち丁寧にうなずいて、もどかしい思いを酌み取ろうとしてくれた。
「つまるところ家の長者も幸せには違いないが、いくら生活の糧に恵まれても、物はいずれ滅ぶ。裏切るのだ。そして欲望にはキリがない。求める心は常に渇いて、少しも休まらぬ。だから金輪際、安心も満足もないのだ。無限の欲を、限りある命で満たそうとするのだから、絶えず矛盾を抱え込むことになるのだよ」
医師の言葉は青年の胸をついた。
「ワシも若いころ、このことに気づいて悩んだことがある。貧しさで欲を満たせないのはつらい。衣食住は生きるために必要だからだ。しかし欲望を肥大させると、なお苦しい。それなのに、どんな道を歩んでも欲から離れることはできない。一体どうすればいいのか、とな」
言葉にできなかった思いが、慈医の言葉によって明らかにされていく気がした。青年はますます医師の話に引き込まれていく。
初めの「家の長者」は物や金に恵まれた幸せ者だが、財は生きている間の慰み物。必ず別れていくのだと、慈医の話にうなずいた青年は、次の「身の長者」について聞こうとしていた。
「家の長者となっても、心底からの安心も満足も得られないと思った私は、おおよそ生きている人間にとって何が大事か考えた」
「それは……一体、何なんです?」
「肉体じゃ。私は病気がちで、幼いころから身に障ることは何でも抑えられていた。健康ならあれもしたい、こうもなりたい、と強く思っていた。長じて丈夫になったが、かねてより病人の助けになりたいと思ったのだ」
「それで医師に?」
「さよう。世の中には王族じゃ、貴族だ、とすべてに恵まれながら、病弱ゆえに不幸を囲う人が多くある。人間は身が本。何に恵まれなくても元気な肉体があれば、何とか生きていくことができるだろう」
何を思い出したのか、その時、医師は、苦い薬を飲み下すような渋面を作った。青年がここへ来てから、初めて目にする表情である。
「先の話に戻るがな、お釈迦様の説かれた『身の長者』とは、健康な身に恵まれた人のことじゃ。医者はそれを支える者。患者を励ましつつ、ともに病を克服していくのは素晴らしいことだ。当初は、それがうれしくてたまらなかった。だがな……」
医師は再び顔を伏せる。そばにいるだれもが不安になるような表情で、老医は一瞬沈黙した。
「人には、どうしても抗えぬものがある。それに気づいて愕然としたのだ」
「……抗えぬもの。それは一体何なのですか?」
「老いと、病と……死じゃ」
「老いと病と死?うーん、確かにそうでしょうが、長く生きればだれにでも来ることではありませんか。何を驚くことがあるのです?」
いぶかりつつ、青年は疑問をぶつけた。
「ああ、確かにだれもが知っていることじゃ。だがその実態を知る者は少ない。皆、自分がその身になるまでは、本当には分からないのだ。いや、むしろ見ないようにして、ごまかしているのだからな。だが、医術に携わってから、その考えを改めざるを得なくなったのだ」
この一言に導かれるように、若者は自分の人生観を振り返ってみた。確かに今までは老いや死など気にかけていなかったが、それがひどく幼いことのように思えてきた。
「医師は自分を頼ってくる人を選り好みできないが、その中には、治る見込みのない人もたくさんある。病気は治せるもの、と患者とかかわり始めた私だったが、現実に直面して途中で方向転換せざるを得なくなったのだ」
「現実?どういうことです?」
「私の患者はほとんどが治らなかったのさ。死に至る過程で、苦痛をある程度、和らげることはできる。だが、死ななくはできない。
結局、医学ができるのは、苦痛に耐えながら少しでも患者の命を延ばすことだけだ。言葉を換えれば、死を先送りすることだけだ。
その苦痛に耐えてまで患者を生かす目的は何だ。患者は、何のために生きねばならぬのだ。それが私にも、どうも分からない。
この事実が私を打ちのめしたのだ。患者のつらさは当然だが、看取る我々も苦しい。因果な仕事に就いたものよ、と、いつしか医師になった喜びは失せてしまったのだ。そして自身の生きる意味を問うようになったのだ」
張り詰めた空気の中で、「生きる意味」の一語が、青年の心に鋭く響いた。医師は、大きく一つ息をつくと、また語り始めた。
自分探しの旅の途中で、青年は慈悲深い医師と出会い、お釈迦様の説かれた「三長者」の話を聞く。「家の長者(財に恵まれた人)」や「身の長者(健康に恵まれた人)」は本当に幸せといえるのか。医師は自身の過去を振り返りながら、青年に諭している。
診察を終えた医師の元を訪ねてから、もう何時間が過ぎたろう。ふと二人は、辺りがほの暗くなっていることに気づく。医師が立ち上がり、明かりを灯しながら言った。
「若いころは特に、だれもが人生に夢や希望を思い描くだろう。それはとても大切なことだ。だがな、老いや病で死にゆく人を見取るうち、そんな生き方にも疑問を抱くようになったのだ」
青年の目に疑問を読み取ったのか、老医は言葉を継いだ。
「さっきも話したように、医者になりたてのころの私は、病は完全に克服できるもの、と思っていたが、とんでもない思い違いだった。一時、病気を治せても、いずれ命は終わる。
その瞬間、そして、その先はどうなる。生はこの世だけのものなのか。それとも……この疑問が離れなくなった。生まれた意味も生き方も、その答えによって変わる。生の意味が分からねば、医術をはじめ人間の営みすべてが宙に浮いてしまうのだからね」
生涯を通じて営々と築いた一切が、最期、心の明かりとならず、グシャリと握りつぶされる──先般から老医の繰り返す言葉が、頭の中でグルグル回っている。
〝そんなものか〟ピンと来ない気もするし、〝暗い話はウンザリ〟とも思う。
だが、慈医の話には、自分の幼い人生観を寄せつけぬ重みと説得力がある。老いと病と死は自分にも必ず来るだろう。たった一度の失恋や裏切りでさえこんなに落ち込むのだから、死に直面した衝撃はどんなものか。想像もできない。未知なるものへの恐れが心で渦を巻く。その時、オレはどうなるか?どう対処すればいいのか?今の自分には、その糸口さえつかめていない。
「家の長者、身の長者は確かに恵まれた人だが、人生終末の絶望は、それでは乗り越えられない。
死んでいく時は、立派な家も、ありあまる財も、健康な肉体も相添うてくれぬものばかりだからなあ。医術は死の到来を少しばかり遅らせるだけ、と気づいてから、医師である私の心は暗く沈んだままだった。
それでも生きねばならないから、淡々と目の前の患者と向き合ってきた。だがな、そんなごまかしの生活を、そう長く続けられるものでもない……」
「解決の道はないのですか?」
「たいていはそんなこと問題にもせず一生を過ごす。その重大さに気づく者はあっても、絶望で終わる。明敏さゆえに、自ら命を絶つ者もある。ところがまれに、その絶望の淵から歓喜の泉へ向かう道を、無為にしか思えない人生の答えを、知りうる者もある」
その老医師の言葉に、青年は目を瞠った。解答がある?老いと病と死の問題に?信じられない思いで老人の顔を凝視すると、その瞳は底光りする深い色を湛えている。青年は、信じていいのでは、と直感した。
「それはな『心の長者』になることじゃ」
医師は静かに言った。
旅の途中で慈悲深い医師と出会った青年は、お釈迦さまの説かれた「三長者」の話を聞く。「家の長者(財に恵まれた人)」や「身の長者(健康に恵まれた人)」は生きる術に長けた人だが、それらは本当の幸せではない。「心の長者」こそが真の幸福者である、と。
「死の問題に解決の道がある?」
目を見開いて尋ねると、うなずきながら医師は言った。
「それが仏陀・釈迦牟尼の説かれた『心の長者』なのだよ」
心の長者──どんな幸せになった人のことをいうのだろう。仏陀だけが教えられていることなのか。自分もなれるものか……次々浮かぶ疑問を一つ一つ、青年は率直に尋ねる。医師はすぐには答えず、言葉を選びながら言った。
「それを知るには、今、私が話してきたことをよく理解することが大切だ。分かるかな?」
青年はここに来て聞いたことを反芻してみた。
〝何を求めたら、悔いのない人生を歩めるのか〟
発端はこの問いだった。自分は初め、生活の豊かさを求めさえすればいいと思っていた。だが、
〝その中に、命終わる時、心の支えになるものがあるだろうか〟
こう問う医師に導かれ、それまで価値観のすべてだった財宝や健康、妻子や人脈などをどんなにかき集めても、老いや病や死からは逃れられぬと気づいた。慈医はそして、
〝この老病死の大問題を自覚し、正しく認識することが大事だ〟
と言う。心にコトリと落ちるものがある。
「この世の幸せは死んでいく時は明かりにならない。それは皆、気づいているが、言葉でそう明らかにした人は、ほとんどない」
〝確かに〟彼は思った。否定できない事実なのだが、自分でそう気づいて悩んだり、考えたりしたことはなかった。いや、心のどこかで、あえて考えないようにしてきたのかもしれない。
「つまり、今聞いた話が、そのまま仏陀の教えであると……」
「さよう。私が初めに仏陀のお弟子から聞いたのも、この話だったのだ」
慈医はそして、自分が仏縁を結んだきっかけを話しだした。
数年前のある日、見慣れぬ一人の修行者が、腹痛を治してほしい、と飛び込んできた。当時、心に生きる明かりはなかったが、懸命に医者の務めは果たそうとしていたから、その年若い出家の痛みを、飲み薬の調合一つでケロッと治めることができた。感謝した僧の申し出でその時、法話を少し聞かせてもらった。
「今思えば、どうしてそんな気持ちになったものか。おおよそ信仰心のかけらもなかった私が仏法などと。果たしてその話の核心に触れた衝撃は、今も忘れることはできないのだ」
感動がよみがえったのか、医師の頬は紅潮してきた。
「医師として私は思う。患者の診立てがよくない医師は、決して適切な治療ができない。当然だ。出発点が違っているのだから。病因を誤れば治療にならぬからな。だが仏陀という名医は、苦悩の真因を、我々の暗い心であると的確に教えられている。家の長者、身の長者にたとえなっても、心が真っ暗ならば心底喜べない。山海の珍味があっても、重病人は味わえないが、健康ならば、三度の食事がおいしく頂ける。それが粗末な食事であってもだ」
しばらく何も言えずにいた青年の腹底を突き通すように指さし、最後に医師は強い口調でこう言った。
「人生に真っ暗なその心を、明るく楽しく転じさせる。それこそ仏陀の教えなのだよ」
青年は、ゆく手に一条の光明が見えた気がした。スックと立ち上がって深く謝意を伝え、医師の家を辞し、往来に出て、早足でズンズン歩いた。胸のうちでこう繰り返しながら。
〝やった。オレはついに生涯の道を見つけたぞ〟
生きる意味、人生の目的を、親鸞聖人は、主著の教行信証(きょうぎょうしんしょう)に、わかりやすく例えで教えられています。
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