お釈迦様物語 お釈迦様はどんな女性を美しいと仰るか
暁の光が辺りを照らし始めた。徐々に明けていく気配をまぶたに感じながら、女は夜具に横たわっている。
給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)の家は朝が早い。
すでに起きだした家人が、屋敷のあちこちで元気に挨拶を交わす声が聞こえる。
だが、嫁いだばかりのこの新妻だけは、長者の家風になじむ気がないようだ。
“まったく……貧乏所帯じゃあるまいし。何でこんな早くから起きて働かなくちゃいけないのよ。ワケ分かんない”
腹立ちを抑えて寝返りを打つ。もうひと眠りしなくちゃ、と思った。
“肌を美しく保つには、睡眠不足は大敵なんだから”
そうつぶやいて、二度寝の快楽をむさぼるのだった。
「……玉耶(ぎょくや)は、まだ寝ているのかい?いい加減に起きないものか」
戻りかけの意識が、隣室の舅の声を聞いた。
彼女は驚いて身を起こし、辺りを見回す。
窓から強い陽光がさし込んでいる。長い髪をかき上げ、大きく伸びをして鏡台に座る。映し出された自分を見て、ようやく平静を取り戻した。
玉耶が起きた気配を察したのか、義父と夫の話し声はやんだ。彼らの腫れ物に触るような態度にイラつく。
生活をともにすれば遠慮も薄れ、あからさまな態度や表情も表れるはずなのに、義父母も夫も不自然なほど彼女に優しい。
それがたまらなくイヤで、もう実家へ戻りたいとさえ思っている。
何から何までこの家と自分は合わない。ここでは皆、だれかのために働くのを喜びとしている。思いやりや協調がとても大事だとも言われた。
“でも私は私。好きなようにさせてもらうわ。そもそも来てくれと頼まれたから嫁いでやったのよ”
反抗心を全身に表し、玉耶は容姿を磨くことに専心している。
だれより早く寝て遅く起き、日がな一日鏡の前を居場所に、髪を梳き、化粧を続ける。
裕福な家庭で育ったせいか、身の回りのことは人任せで家事も一切したことがない。
気に障ればわめき、使用人にあたり散らす。勝手気ままな玉耶を、周囲は持て余していた。
“夫もあきれているだろう”
うすうす気づいてはいるが、“態度を変えれば負けよ”
今更どうすることもできないと、開き直るしかないのだった。
家長の給孤独長者も困り果てている。女性は見た目が第一と思い、探し当てた息子の嫁。容貌は申し分ないが、内面は幼いままだった。
労を惜しまず、他人のために働くことを当然としてきた長者には、彼女の日常は理解を超えている。
食事の準備や片付け、掃除、整理整頓。
人としてなすべき生活の基礎を、端から彼女は身につけていなかった。
だが、こちらから持ちかけた縁談だから、今さら離縁もできない。
長者家族は途方に暮れ、かねて崇敬する仏陀・お釈迦様におすがりするしかないと考えた。
給孤独はその日、お釈迦様を訪ね、“何とか彼女の心掛けがよくなるようにお諭しを”と願い申し出た。
深く同情なされたお釈迦様は、早速、長者の屋敷へ赴くと仰せられた。
晴れやかな顔で長者が帰宅すると、家人がいつも以上に掃除に精を出し始める。
何かあると感じ取った玉耶は、傍らの使用人をつかまえて尋ねた。
「ハイ、何でも明日、お釈迦様がいらっしゃるようでして……」
バカ正直な返事から、玉耶は自分の矯正計画を見抜く。明日は一歩も部屋から出るまいと誓った。舅たちは釈迦の手前、さぞ困るだろう。
“アホクサ。説教なんて、だれが聞くもんですか”
彼女は一人ほくそえんだ。
玄関の辺りが騒がしい。出家たちの行列が、どうやら見えてきたようだ。家人が口々に、何かはやし立てている。
家の中は、大方の準備が終わったのだろう。時折、だれかが廊下を駆け抜ける以外は、咳払い一つ聞こえなかった。
総出の迎えが盛り上がるほど、部屋の静寂が際立つ。
押し入れに身を潜める玉耶は、より小さくなってうずくまった。フッと醒めた思いが胸をかすめる。
“何で私、こんなことしてるの?”
いかにも幼稚だと、我ながら思う。だが、“姿さえ見せなければ”。今はそう思ってやり過ごすしかなかった。
仏陀の一行が到着した。家中が玉耶のことなど忘れたように、修行者たちの世話を始める。
屋敷の至るところで談笑が交わされ、愉快な声が響きわたる。
だが、にぎわいの中ただ一人、家長の長者だけがハラハラしながら嫁の行方を捜していた。
“お出迎えもするつもりがないのか……”
玉耶の部屋へ行ってみた。
「玉耶よ、いるのか」
返事がない。確かにいるだろう。だが、呼びかけを拒むように静まり返っている。
“ヤレヤレ、困ったものだ”とため息をつきながら、お釈迦様の控室に行き、事情を説明した。
「まことに申し訳ございません。実は……」
一切をお見通しであった仏陀は、すぐに神通力で長者の屋敷を透き通るガラスの家に変えてしまわれたのである。
舅の呼びかけを遠くに聞きながら、玉耶は暗がりで息を潜めている。ここに来てからのことを思い返す。
“どうしてこんなことに……”
気分に任せ、後先考えずしてきたことが、思わぬ方向に進んでしまった。
いっそ実家に帰りたくなる。と、その時、不意に明るさを感じて目を上げると、どうしたことか。
客人たちの戸惑う姿が見える。いや壁の内といわず、外といわず、一切がありありと透けているではないか。
自分の情けない姿もまた、一目瞭然だった。
“何よこれ。丸見えじゃない”
押し入れの中なら音も漏れず、姿も見えないと思っていた。
目隠しできてこそ隠れる所詮もある。
外面だけでなく、すねて、反抗している心の奥底まで白日の下にさらされたようで、玉耶はいたたまれない気持ちになった。
“一体、何がどうなったというの?”
すべてがお見通しとなれば、もはや隠れてはおれない。
自ら飛び出し、お釈迦様の許へ駆け寄ると、倒れ込むようにひざまずいた。
心はまだ、モヤモヤした雑念が渦巻いている。
だが、“仏さまって、普通じゃない力があるんだわ”という驚きも確かにある。そんな彼女にお釈迦様は優しく諭された。
「玉耶よ。いかほど顔や姿が美しくとも、心の汚れている者は醜いものである。
黒い髪もやがては白くなり、真珠のような白い歯も段々と抜け落ちていく。顔にはシワができ、手足は次第に不自由になってくる。
それだけではない。ひとたび無常の風に誘われれば、二度と見られぬ哀れな姿に変わり果てるのだ。
そのような肉身に何の誇りが持てようか。それよりも心の美しい女になって、だれからも慕われることこそが大切とは思わぬか」
静かだが、一言一言が心にしみる。仏陀の威徳に触れ、玉耶は、心の鎧がはがれていくのを感じ始めた。
表情の変化を見て取られたお釈迦様は、続けて「そなたは、世に七通りの婦人がいるのを知っておるか」と七婦人を例示される。
母の如し………母親が子供を養育するように、愛情豊かに夫と接する妻
妹の如し………妹が兄を尊敬し、慕うように夫に仕える妻
善知識の如し…一切の人々を真実の幸福に導く仏教指導者のように、常に夫を善導し、成功に至らしめる賢夫人
婦の如し………時に夫婦ゲンカもするし、仲良くもなる。夫と対等の普通の妻
婢の如し………召使のような妻。自己主張をせず、何事も黙々と服従する
怨家の如し……夫に恨みを持ち、横に寝ている夫の顔を見て、“こんな男と結婚したから……”と、恨み続ける妻
奪命の如し……夫の命を奪ってしまう恐ろしい妻。日々“死んでくれ”と夫を憎み、ついには殺してしまう悪女をいう
ジーッとうつむいて聞いていた玉耶だが、怨家、奪命の説明になるとギクリとした。
「これは紛れもない。私のことを言っているんだわ」
仏陀が自分の心中を覗いて話しているのではないか、とさえ思う。
教えの光に照らされ、やがて嫁いでからの悪態の数々が思い出された。
請われて嫁したこの家の生活に戸惑いばかりを抱いた。
幼いころから蝶よ花よと育てられ、自分は家事が何一つできない。やろうともしなかった。それをとがめられたこともない。
だから妻として、これまで夫のために一度の給仕もしていない。関心といえば、己の美貌を磨くことばかり。
機嫌が悪ければ口も開かず、自分の非を認めない。
夫や父長にも平気でキバをむき、不平不満を並べては、心の中で切り刻む。
自堕落で身勝手だった。
だれも表立って責めはしないが、ひんしゅくを買っているのは自分でも分かっていた。弱みを見せまいと、さらに意地になり、落ち込み、すねて、皆の気分を憂鬱にしている。
そういえば、この一家は皆、お釈迦様の教えを信奉して、上も下もなく労働にいそしんでいる。
人の喜びをわが喜びとして、生き生きと幸せそうだ。
ああ、自分もあんなふうになりたい……。素直な気持ちがにわかに、フツフツと湧いてきた。
お釈迦様は、穏やかに続けられた。
「玉耶よ、七種の婦人とはこのとおりだが、そなたは自分をどれだと思われるかな」
「お釈迦様。私は……怨家と奪命をこね合わせたような女が私でございます」
思わず言い放った玉耶に、お釈迦様は優しく問う。
「それはよい婦人かな?」
「いいえ、恐ろしい女です。私ほど悪い女はいませんでした。こんな私が救われるには、どうしたらよいのでございますか?」
諄々と、それからお釈迦様は、玉耶に法を説かれた。心から悔い改めた彼女は、後世、婦人の鑑と称賛されるようになったのである。
一家和合の給孤独長者の家が、ますます繁栄したことは言うまでもない。
最新記事 by あさだ よしあき (全て見る)
- 「南無阿弥陀仏」って何だろう?|念仏についての6つの疑問(後) - 2024年11月18日
- 「南無阿弥陀仏」って何だろう?|念仏についての6つの疑問(前) - 2024年10月21日
-
親鸞聖人が教える
お盆に思い出す亡くなった人に今からできる恩返しとは(後) - 2024年10月15日