本願寺に東と西があるのはどうしてですか?徳川家康にうまく利用された
今日の浄土真宗は真宗十派と言われ、十の宗派に分かれていますが、その中でも特に大きな教団が本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)です。
「浄土真宗でもウチはお西」「ウチはお東」と話しているのを聞かれた方もあるかもしれません。
なぜ本願寺は西と東に分かれているのでしょうか。
最初から分かれていたのか、ある時を境に分かれたのか。
疑問に思う方も多いようです。
今回は本願寺が西本願寺と東本願寺に分かれた理由について解説します。
(質問):同じ親鸞聖人や蓮如上人の教えなのに、なぜ、浄土真宗の本願寺が西と東に分かれているのでしょうか
(解答)
本願寺が東と西に分かれているのはどうしてか。
それは、戦国時代の石山戦争にまで歴史はさかのぼります。
石山戦争とは、織田信長と石山本願寺との戦いです。
石山本願寺は、室町時代に活躍された蓮如上人(れんにょしょうにん)が晩年に大阪の石山の地に建立された一大拠点です。
石山本願寺は、現在の大阪城がある場所にありました。
石山戦争後に豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に建てた城が大阪城です。
織田信長は、石山本願寺との戦争を10年以上続けましたが、石山本願寺を降伏させることはできませんでした。
このまま天下統一を足止めされることを好まなかった信長は、正親町天皇(おかちまちてんのう)を仲裁にたてて和睦を求めてきました。
その時和睦するか、抗戦するかで、石山本願寺内の議論が2つに分かれました。
これが本願寺が東と西に分かれるきっかけとなります。
当時の石山本願寺のトップ、顕如上人(けんにょしょうにん)と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を、長男の教如(きょうにょ)は籠城して徹底抗戦を主張し、意見は厳しく対立しました。
顕如上人は信長と和睦をすることを決め、石山本願寺を明け渡し、三男の准如と共に和歌山の鷺森(さぎのもり)別院へと移ったのです。
信長は和睦はしたものの、本願寺滅亡を画策していました。
明智光秀に本願寺への攻撃を命じましたが、「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と馬首を翻した光秀によって信長は討たれました。これが有名な本能寺の変です。
結果的に、本願寺は明智光秀のおかげで滅亡から逃れることができたといえます。
親子の溝を徳川家康にうまく利用された
その後も、顕如上人と教如の親子の溝は埋まることなく深まるばかりでしたので、顕如上人は三男の准如へ本願寺の宗主職をゆずったのです。
これが今日の西本願寺となります。
その後、日本統一を果たした秀吉は、本願寺に対して敬遠主義をとって一生終わりましたが、徳川家康は巨大な本願寺勢力の分断を謀略し、不満のたまっていた教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせました。
これより本願寺は2つに分かれて、西本願寺、東本願寺となったのです。
親鸞聖人の教えに西も東もありません
このような背景があったため、室町時代の蓮如上人の時代には、西も東もありませんでした。
親鸞聖人の教えにも、西も東もありません。
ともに、親鸞聖人、蓮如上人を敬っていますので、親鸞聖人、蓮如上人がどのようなことを教えられたのかを知ることが大事ではないでしょうか。
まとめ
本願寺は最初は1つでしたが、信長との戦いである石山合戦によって生まれた顕如上人と教如との親子の確執と、徳川家康の勢力分断策によって戦国時代~江戸時代の間に西本願寺と東本願寺に分かれました。
しかし親鸞聖人の教えには西も東も関係ありません。
正しい親鸞聖人の教えを学んでいただきたく思います。
(参考)
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