親鸞聖人と二十四の筆頭・性信房
親鸞聖人には、「関東の二十四輩」といわれるお弟子がありました。その筆頭に挙げられるのが、性信房です。
「性信房が、関東にいてくれると、わが身を二つ持っているように心強い」
とまで親鸞聖人はおっしゃっています。親鸞聖人と性信房の関係をたどってみましょう。
手のつけられない悪党
性信房は、常陸(今の茨城県)の生まれですが、怪力無双の荒くれ者で、悪五郎と呼ばれ、恐れられていました。
心性は狼のごとし。礼法を知らず、従順の心なし
(二十四輩順拝図会)
とあります。
悪事の限りを尽くす悪五郎に、人生の転機が訪れたのは18歳の春でした。武者修行を志し、諸国を遍歴している途中、たまたま京都の吉水草庵の前を通りかかりました。門前、市をなし、老若男女が喜々として中へ入っていく。
「ものすごい人だなあ。一体、何があるのだろう」
悪五郎も、興味半分で入ってみました。そこでは、法然上人のご説法が行われていたのです。
「人は皆、自分のことぐらい分かると思っている。ところが、自分の目で自分の眉を見ることができないように、近すぎるとかえって分からないものだ。仏さまは、見聞知のお方である。だれも見ていない所でやった行いもすべて見ておられる。陰で人の悪口を言っていることも皆聞いておられる。心の中で、人に言えない恐ろしいことを思っていることも皆、知っておられる。かかる仏さまの眼に、我々の姿は、どのように映っているであろうか」
「『大無量寿経』には、
心常念悪(心常に悪を念じ)
口常言悪(口常に悪を言い)
身常行悪(身常に悪を行じ)
曽無一善(曽て一善無し)
と説かれている。心と口と体で、悪を造り続けているのが人間の真実の姿だと、お釈迦様は断言されている」
縁側で聴聞していた悪五郎の耳に、法然上人のお言葉は、強い衝撃として入っていきました。
「まるで、自分のことを言われているようだ。いや、自分でさえ分からない自分の姿まで見透かされている」
初めて聞く仏法でしたが、悪五郎は、恐ろしいほど、その奥深さを感じたのです。
「阿弥陀仏の本願は、すべての人間を、極重の悪人と見抜かれ、そんな者を、必ず絶対の幸福に助ける働き……」
法然上人は、阿弥陀仏の本願を詳しく説かれました。
「ああ、オレは人生を懸けて悔いのない教えに遇うことができた」
ご説法のあと、悪五郎は、感涙にむせびながら、法然上人の前へ出ていきました。
「私は、これまで、悪を悪とも感じず、人を悩ませ、悪逆の限りを尽くしてきました。かかる悪人にも、阿弥陀仏がお慈悲をかけてくだされていたとは……。どうか、私をお弟子の端にお加えくださり、お導きください」
髻を切って、懇願するのでありました。
この時、法然上人は親鸞聖人におっしゃいました。
「感心な若者だ。しかし、老年の私に従っても、後、幾らも随身できないだろう。そなたの元で、よく育ててやりなさい」
かくて、悪五郎は「性信房」と名を改め、親鸞聖人のお弟子になった。聖人34歳、悪五郎18歳の年でありました。
翌年、権力者の弾圧により、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流刑に遭われました。「承元の法難」です。
性信房は、親鸞聖人のおそばを離れず、出身地の関東へ向かいました。
横曽根門徒の形成
越後から関東へ入られた親鸞聖人は、常陸の稲田を拠点に、各地をくまなく布教されました。
建保2年、性信房とともに下総(茨城県南部)へ赴かれた時、横曽根に荒れ果てた寺院を見つけられました。この無住寺院を譲り受け、聞法道場に改造されたのが、今の報恩寺です。(茨城県水海道市豊岡町)
建保2年といえば、聖人42歳。関東へ来られて間もなくのことです。下総に親鸞聖人を慕う人がいたとは思えません。全くの新天地へ、布教開発に乗り込まれたのでした。そのご苦労の一端が、一本の松に託され、今日に伝わっています。
報恩寺の近くの道路わきに、石垣で囲んだ土盛りがあります。その中に、細く体をくねらせた松がそびえています。恐らく、親木が枯れたあと、同じ根から出てきた松でしょう。そばには、「親鸞聖人舟繋之松」と刻まれた石碑が立てられています。
親鸞聖人が、舟をつながれた松……。周りは広々とした田園なのに、なぜ、舟を?
当時、この辺りは、利根川の氾濫原で、広大な沼地でした。親鸞聖人は、その中を、舟を駆使され、布教されていたのでした。陸地を歩くより、余程早く目的地に着ける。いかに、時間を惜しまれ、精力的に活動しておられたかが分かります。
横曽根の報恩寺は、性信房に任されました。やがて、「横曽根門徒」といわれる関東で最大の門徒組織が形成されていきます。
報恩寺は、江戸時代に焼失し、寺は東京・上野に移されました。現在の水海道市の報恩寺には、性信房に関する資料は残されていないといいます。
箱根の別れ
親鸞聖人は、60歳過ぎに、懐かしい京都へお帰りになることになりました。性信房もお供をして、小田原の箱根山に至った時のことです。
親鸞聖人は、関東のほうを眺められ、性信房に、諭すようにおっしゃっいました。
「関東にあって20年、私は、阿弥陀仏の本願を伝えてきた。初めは非難攻撃していた者も、今は本願を信じ、ありがたいことである。しかし今後、どんな妨げが起きて、仏法が曲げられていくか分からない。それ一つが気にかかる。性信房よ。関東にとどまって、阿弥陀仏の本願を徹底してもらいたい。それが何よりありがたい」
突然の仰せに当惑する性信房に、親鸞聖人は次のようなお歌を示された。
病む子をば あずけて帰る 旅の空 心はここに 残りこそすれ
関東の門弟を、わが子のように思っておられる聖人の御心に打たれた性信房は、謹んでこの大任をお受けし、涙ながらに引き返していったのです。
この時、親鸞聖人は性信房へ、ご愛用の笈(おい:大切な物を入れて背負う箱)を与えられたことから、以来、この地は「笈ノ平」と呼ばれるようになりました。現在、“親鸞聖人御旧跡性信御房訣別之地”と刻まれた大きな石碑が置かれています。
数年後、性信房は、関東の情勢を報告するために上洛しています。
「東国において真宗日々盛んになり、信心決定(絶対の幸福)の同朋が多く現れています」
性信房の言葉を聞かれた親鸞聖人は、
それぞ、わが生涯のよろこび、何事かこれにしかん
御喜悦限りなし、と『二十四輩順拝図会』は伝えています。
「一日も早く、阿弥陀仏に救われて、信心決定してほしい」
親鸞聖人は、生涯、これ一つを念じていかれたのでした。
箱根での不思議
箱根神社は、昔、箱根権現と呼ばれていました。親鸞聖人と箱根権現の関係は、『御伝鈔(ごでんしょう)』に次のように記されています。
親鸞聖人は、夕暮れになって、険しい箱根の山道に差しかかられた。もうどこにも旅人の姿はない。夜も深まり、やがて暁近く月落ちるころ、ようやく人家らしきものを見つけ、ホッとなさる。
訪ねた家から、身なりを整えた一人の老人が、恭しく出迎えて、こう言った。
「私が今、少しまどろんでいますと、夢うつつに箱根権現(神)さまが現れて、もうすぐ私の尊敬する客人が、この道を通られる。必ず丁重に誠を尽くして、ご接待申し上げるように……と、お言いつけになりました。そのお告げが、終わるか終わらぬうちに、貴僧が訪ねられました。権現さままでが尊敬なさる貴僧は、決して、ただ人ではありませぬ。権現さまのお告げは明らかです」
老人は感涙にむせびつつ、丁寧に迎え入れ、さまざまのご馳走で、心から親鸞聖人を歓待した。
親鸞聖人は、ここで三日間、教化されたといいます。以来、神官皆、親鸞聖人を尊敬し、箱根権現の社殿に、親鸞聖人の御真影が安置されるようになりました。それは明治時代まで続いたといいます。神仏分離の法令以後、親鸞聖人のお姿は宝物殿に移されています。
嘉念房の布教
箱根を越えられる親鸞聖人の前に一人の男がひざまずきました。
「私は都から流罪に遭って、この山で配所の月を眺めている者です。失礼ですが、どのような修行を積まれた大徳であらせられますか」
「何の修行も積んでいません。ただ、阿弥陀仏の本願をお伝えしている者です」
聞いた流人は涙を流して喜び、
「常日ごろ、後生の一大事が心にかかりながら、いたずらに月日を送っていましたが、今ここに善知識に巡り会えたことを喜ばずにおれません。どうか、流人のあばら家にお立ち寄りくださり、わが、暗い心をお救いくださいませ」
と願い出ました。
親鸞聖人は、喜んで流人の住居へ足を運ばれ、どんな人をも、必ず、絶対の幸福に助けたもう阿弥陀仏の本願を、懇ろに説かれたのでした。
この流人は、親鸞聖人のお弟子となり、嘉念房と名乗りました。
嘉念房は赦免のあと、京都に親鸞聖人を訪ね、常におそばにあってお仕えしたといいます。
弘長2年、親鸞聖人が浄土往生の人となられたあと、嘉念房は、美濃国を巡教し、白鳥郷に草庵を結んで親鸞聖人の教えの徹底に全力を尽くしていました。
ある日、一人の男が来て、
「私は、ここより北に当たる飛騨国白川郷に住む者ですが、これまで、仏法というものを聞いたことも見たこともありませんでした。どうか私の国にも仏法をお伝えください」
と願い出ました。
嘉念房は、これぞわが使命と、翌日にも出発しようとしました。しかし、白鳥郷の人々は、
「せっかく念仏繁盛のこの地を後に、山深い飛騨国へ入ることはやめてください」
と言いましたが、嘉念房は、
「そんな所こそ、仏法を弘めなければならぬ……。きっと、師の親鸞聖人もお喜びになるであろう」
と決意を述べ、布教に旅立ったといいます。
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