親鸞聖人と真仏房・高田専修寺
親鸞聖人が野宿されたご旧跡
稲田の草庵から北西へ約20キロ、高田専修寺の前に、その痛ましいご旧跡があります。
道路わきの杉林の中に、1メートル以上もある石が置かれています。表面は平らで、大きな台のようです。高い鉄柵で囲まれ、「般舟石」と立て札があります。
この冷たい石の上に、親鸞聖人は体を横たえられ、一夜を過ごされたことがありました。しかも、53歳の1月8日のことでした。
なぜ、野宿されたのか。稲田には、奥さまとお子さまが待っておられる温かい家庭があったはずなのに……。
関東へ入られて10数年後のことだから、常陸にはお弟子や門信徒が多く現れていたはず。しかし、親鸞聖人は、そんな所に安住しておられなかったのです。
すべての人が絶対の幸福に救われる教えがあるのに、苦しみ悩む人がいるのは、自分の怠惰のせいだと、いまだ仏法が伝わっていない下野へ、単身、布教に赴かれたです。
全くの新天地を布教開発する厳しさは、計り知れません。
「この里に 親をなくした子はなきか み法の風になびく人なし」
と、一軒一軒訪ね歩かれ、仏法を伝えられたのでした。
今日と違って、どこにでも旅館があるはずがなく、一日中歩いても耳を貸す人がなければ、宿を貸そうという者も現れないでしょう。むげに追い出す者ばかりだったのではないでしょうか。野宿されたのも、二度や三度ではなかったと思われます。
親鸞聖人のご苦労は、やがて大きく花開くことになります。下野にも、阿弥陀仏の本願を聞き求める人々が続出し、関東で一、二を争う念仏者集団、高田門徒が形成されたのでした。
真仏と顕智
親鸞聖人から高田門徒を任されたのが真仏房でした。
真仏は、下野の国司の長男でした。16歳の時に、親鸞聖人の教えを聞き、人生の目的をハッキリ知らされました。ところが、その翌年7月、父が死亡。家門を継いで真壁城主となり、下野の国司となります。しかし、聞法の志、断ち難く、4ヵ月後には弟に家督を譲り、親鸞聖人のお弟子になっています。
50歳で若死にした真仏の跡を継いだのが顕智です。顕智と親鸞聖人の出会いも劇的でした。
『遺徳法輪集』は、次のように伝えています。
「顕智房は筑波山のふもとに住む武人でしたが、親鸞聖人の教えをそしり、親鸞聖人を殺害しようと機会をうかがっていました。ところがある時、ご布教中の親鸞聖人にバッタリ出会いました。これ幸いと、顕智は刀を抜いて向かっていったのですが、親鸞聖人の柔軟慈悲のお顔に接するや、たちまち害心が翻り、全身の力抜け落ち、大地にひれ伏してしまったのです。顕智は涙を流して日ごろの悪心を懺悔し、親鸞聖人のお弟子となりました」
親鸞聖人のお命を付け狙ったのは弁円だけではなかったのです。ほかにも記録に残っていないだけで、どれだけ危険な目に遭われたかしれません。
親鸞聖人は、いかなる迫害にも屈されなかったのです。柔和な中にも、偉大な信念に、顕智は生まれ変わったのでした。
「仏法を伝える者は命懸けでなければならない」
親鸞聖人は身をもって教えておられます。
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