親鸞聖人と信願房へのお諭し
天台宗から改宗
宇都宮の観専寺を開いた信願房は、元の名を稲木次郎義清といい、常陸稲木の領主でありました。
地位や財力に恵まれた生活を送っていた義清を突然の不幸が襲ったのです。最愛の一子が病で亡くなったのです。
「ああ、あまりにもむごい……。あの子は、どこへ行ったのか……。幼い子供にさえ死は容赦しない。まして、自分が今日まで生きてこられたのが不思議だ」
無常を強く感じた義清は、後生の一大事の解決を目指して出家し、宇都宮に寺を建てました。天台宗の修行に励んだのです。
どれだけ精進しても心が晴れない義清を救ったのは、親鸞聖人との出会いでした。しかも、親鸞聖人のほうから飛び込んでこられました。
高田に新たな拠点を築かれ、布教戦線を拡大しておられた親鸞聖人は、観専寺で一夜の宿を請われたのです。
親鸞聖人は、住職と、夜を徹して話をされました。比叡山での自らの体験を踏まえ、自力の修行では決して救われないことを明らかにされたのです。
初めて阿弥陀仏の本願を知らされた義清は、直ちに親鸞聖人のお弟子となり、「信願房」と生まれ変わりました。
観専寺では、翌日から、里人を集めて親鸞聖人のご法話が開かれています。
「後生の一大事は、阿弥陀仏の本願によらなければ絶対に解決する道はありません。」と静かに説かれるや、
老若男女の念仏に帰すること、草木の風になびく如く、たちまちに聖人の御名は四方にひびきわたった
と寺伝に記されています。
真の報恩
親鸞聖人が、京都へ帰られてから10数年後、信願房は、師の親鸞聖人を慕って上洛しています。親鸞聖人のお住まいを訪ね、懐かしさとうれしさが胸にあふれ、いつまでも帰国を忘れているかのようでした。
親鸞聖人は、信願房にこう諭されています。
「仏恩、師の恩を報ずるということは、自信教人信にしくものはない」
「自信教人信」とは善導大師のお言葉、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」の一節です。
「自分が信心決定(絶対の幸福)することは大変難しいことだ。人を信心決定(絶対の幸福)まで導くことはさらに難しいことだ。だからこそ、阿弥陀仏の本願を伝えることが、いちばんの御恩報謝になるのだ」
と教えられています。
親鸞聖人も、広大無辺な絶対の幸福に救ってくださった阿弥陀仏のご恩、救われるまで導いてくださった善知識のご恩に報いる道は、一人でも多くの人に阿弥陀仏の大悲を伝える以外にない、と言い切っておられます。
信願房は、直ちに関東へ帰り、親鸞聖人の教えの徹底に生涯をかけました。常陸、河内、三河に聞法道場を築き、今日に至るまで、信願寺、勝福寺、弘誓寺、慈願寺などがその流れをくんでいます。
文章伝道のさきがけ
親鸞聖人が京都へ帰られたあと、親鸞聖人と関東の門弟を結んでいたのが、書状でありました。
関東から、信心や教えについての疑問が手紙で寄せられる。親鸞聖人は、一つ一つ分かりやすく返事を書いておられます。
しかも、手紙の最後には、
「この文をもて人々にも見せ参らせさせ給うべく候」
とか、
「かように申し候様を、人々にも申され候べし」
と書き添えておられます。
親鸞聖人からお手紙を頂いた関東のお弟子は、親鸞聖人のじかのご説法として、門徒に読み聞かせていたのでしょう。
現在、親鸞聖人の書状は46通知られていますが、そのうち34通が写本、版本です。親鸞聖人の一通のお手紙が、次々に書き写され、印刷されて、10万以上の人たちに伝わったのでしょう。お弟子が親鸞聖人のお手紙を携えて、文字を読めない農民や漁民の元を訪れ、繰り返し繰り返し読み聞かせている姿が目に浮かぶようです。
これはまさに、文章伝道のさきがけです。この方法をさらに徹底されたのが蓮如上人の『御文章』といえます。
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