人身受け難しと説かれたお釈迦さま|人が生きる意味とは(後)
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命は平等なの?
社会的立場や役割・価値は、そのまま命の価値なのか。
幼くしてそんな疑問を抱いたYさんの声です。
子供の頃、母は銀行に勤めていました。
耳の不自由なお客さんが来るようになり、筆談していたそうですが、
「簡単な挨拶だけでも手話ができるようになりたい」と思い、手話サークルに通うようになったのです。
小学生の私も、母の傍らで手遊びのような感覚で手話を覚えていきました。
それをきっかけに、体に障害を持つ方のお手伝いをする、ボランティア活動をするようになりました。
子供の私でも、人の役に立てたことがうれしくてなりませんでした。
しかし高学年になった頃、転機が訪れました。
同じ年頃の、ダウン症の男の子との出会いです。
彼は、自分では手足を動かせず、言葉も話せず、ただ「あー、うー」と声を発するだけ。
子供心に“この子は、お母さんがご飯を与えなかったら死んでしまうんだ。何のために生きているんだろう”と思いました。
そして、ハッとしました。
“確かにこの子は、私と同じように友達と遊んだり、勉強したり、大人になって仕事をすることはできない。
みんなが思う「幸せな人生」を送れない彼と、これからどんな人生でも送れる私と、命は平等といわれるのはどうしてか。
なぜ、人の命は地球より重いといわれるのだろう”
必ず死ぬのになぜ生きる?
疑問は、思春期になって人間関係に煩うようになると、より深刻な悩みへ変わっていきました。
ちょうどその頃、全国的にイジメを苦にした小中学生の自殺が相次ぎました。
テレビや新聞で「自殺をしてはいけない」と訴えるものの、命はなぜ大切か、明確な答えはありませんでした。
どんな人生を送っても最後は必ず死んでいく。
なぜ生きるかが分からねば、いつか大変な苦しみにぶつかった時、私も自殺してしまうのでは、という不安が心を覆いました。
命はなぜ尊厳なのか、答えを求め、大学へ進みました。
そこで待っていたのが、親鸞聖人のみ教えとの出遇いだったのです。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」(教行信証)
*多生……生まれ変わり死に変わりしてきたこと
*億劫……果てしない長期間
「ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求め続けてきた歓喜の生命を獲ることができた。これは全く、弥陀の強いお力によってであった。深く感謝せずにおれない」
生まれ変わり、死に変わり、永い間、迷いを重ねてきた。多生にもあえない“歓喜の生命”を獲るために、この命はあるのですよと、親鸞聖人は教えてくださいました。
この命は、仏法を聞いて絶対の幸福になるためにあった!だからこそ自殺してはならないのかと、命への疑念が、みるみる解けていきました。
人として生きる目的を知らされた喜びを多くの人と分かち合いたい。日々、そう思っています。
巡ってきた大チャンス 今 私がなすべきこと
「人身受け難し、今已に受く」(人間に生まれてよかった!)
の生命の歓喜は、仏法が説く真の人生の目的を知り、達成して初めて味わうことができます。
では、その「人生の目的」とは何でしょう。
悲劇の輪から離れ出るには
仏教に説かれる生きる目的を、自らハッキリ知らされ、生涯多くの人に伝えていかれた親鸞聖人は、こう仰っています。
昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし (高僧和讃)
「果てしなき長い間、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりして、苦しみ続けてきた。
よもやこの身が、この世で阿弥陀仏のお力(出離の強縁)によって無量光明土(極楽浄土)に必ず往生できる身に救い摂られるとは、親鸞知らなかったなあ。
もし、真の恩師・源空(法然)上人にお会いできなかったら、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたに違いない。
危ないところを親鸞、法然さまに救われたのだ。」
まず「昿劫多生のあいだにも」とは、遠い過去から幾度も生死を繰り返してきたことを表されています。
その間、真の救いを求めたがかなわず、迷いの世界(六道)を経巡って苦しんできた、ということです。
私たちが今、生まれ難い人間界に生まれるまでには、過去果てしない長期間、六つの苦しみの世界(六道)を生死輪転してきたのだとお釈迦さまは教えられています。
これを「六道輪廻」とか「流転輪廻」ともいわれます。
「輪廻」は輪が廻ると書くように、ゴールのない円周を、限りなく回っているさまです。
試合に負けたバツだ、と部活動の顧問が生徒に言いつける。
「私がいいと言うまで、おまえたち、グラウンドを走っておれ!」
ところが罪なことに気分屋の顧問は、生徒を走らせていることをすっかり忘却、帰宅してしまった。
夕食を取ってくつろいでいた時に思い出し、慌てて学校に駆けつけると、生徒たちはまだ黙々と走り続けていたという。
トラックから外れることもできず、ゴールの見えないランニングを続けていた彼らの未来は、悲惨な走り倒れです。
その苦しみの輪を出て、往生一定(極楽往き間違いなしとハッキリすること)の身に救ってくださる教えが、実に仏教なのです。
一瞬の人生で、永の迷いを晴らす
次に「出離の強縁知らざりき」の「出離の強縁」とは、六道輪廻を断ち切り、迷界から出て離れ、二度と迷わぬ絶対の幸福の身に助けてくだされる強烈なお力を「強縁」といわれます。
これは、阿弥陀仏の本願力のことです。
「本願」とは「誓願」ともいい、お約束のこと。
十方諸仏の師匠の仏である阿弥陀仏が、苦悩から離れ切れない私たちを哀れに思われ、必ず絶対の幸福に救い摂り、来世は極楽に往生させ、仏にしてやりたい、と誓われたのが「弥陀の本願」です。
阿弥陀仏の本願について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
この弥陀の強い強い願力によって、六道出離の身になるのは、仏法が聞ける人間界でなければできないことです。
三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)のように苦しみが激しくても、天上界のように楽しみが多すぎても、仏法は聞けないからです。
釈尊は仏教を聞けない八つの障り「八難」を挙げられ、チャンスは人間に生まれた今しかないことを教えられています。
ですから「人生の目的」といっても、本当は「多生永劫の目的」のことなのです。
過去無量劫から果てしない未来へ続く、永遠の生命から見たら、五十年、百年の人生などあっという間。その一瞬で、永の迷いの打ち止めをさせられる。これをお釈迦さまは
「今生でこの身を度する」(今救われる)
と言われています。
八難
仏教を聞けない八つの障りを「八難」といいます。
(1)在地獄の難
(2)在餓鬼の難
(3)在畜生の難
地獄・餓鬼・畜生の三悪道は、
激しい苦しみのために仏法が聞けない。
(4)在長寿天の難
(5)在辺地の難
長寿天や辺地などの天上界では、
楽に溺れて聞けない。
(6)聾盲おんあの難
「聾」は耳、「盲」は目、「おんあ」は口が
不自由で、仏法が聞けない。
(7)世智弁聡の難
世間の智恵に長け、自信過剰で屁理屈
ばかり多いために、仏法が聞けない。
(8)仏前仏後の難
仏の在世に遇わねば聞けない。
本当の先生には遇い難い
ところが、そんな大事を教えた仏教は、誰もが聞きたいにもかかわらず、ほとんどの人が知りません。
なぜなら、「出離の強縁(弥陀の本願)」を説かれる先生は雨夜の星で、めったに遇うことはできないのだと、聖人はご自身の体験を通して仰せです。
真の知識にあうことは
難きが中になお難し (高僧和讃)
「知識」とは数学的知識とか科学的知識と言われる知識のことではなく仏教の先生のことなので、「真の知識」とは、阿弥陀仏の本願を正しく伝える先生のことです。
九歳で出家なされた親鸞聖人は、天台宗の僧侶として二十年間、比叡山で学ばれました。
比叡山といえば、当時の仏教の中心地。
全国の俊秀が集まっていましたが、「弥陀の本願を教える知識には遇えなかった」とお弟子たちの前で述懐されています。
苦闘二十年の末、なおも暗い心の解決ならず、泣く泣く比叡の山を下りられた聖人が、間もなく弥陀の本願を説かれる明師・法然上人との邂逅をいかに喜ばれたか。
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし
「もし、法然(源空)上人にお遇いすることができなかったら、出離の強縁を知らず、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんだに違いない。危ないところを法然上人に救われた。」
のお言葉からも分かるでしょう。
実際に助けてくださるのは阿弥陀仏ですが、その救いのあることを教えてくだされた法然上人がおられなければ、救われることもなかったのですから、
「法然さまに、親鸞救われたのだ」
「遇い難い善知識に、よくぞお遇いできたものぞ」
との仰せも深くうなずけることです。
まさに、「仏法聞き難し」のお釈迦さまのお言葉を痛感せられたのでしょう。
その聞き難さを釈尊は、
「ヒマラヤの山頂より糸を垂らして、麓にある針の穴に通すことよりも難しい」
と説かれています。
ちょっとボタンをつけ替えようと、針と糸を取り出して、目をしばたたかせつつ、目の前の針の穴に通すのさえも難儀するのに、八千メートルの頂上からでは針の影さえ分からない。その難しさたるや想像も及ばないでしょう。
考えてみますと、地球上に七十億の人あれど、仏縁あって無上仏(阿弥陀仏)の本願が聞ける人は、どれだけあるか。今こうして、聖人のみ教えに出遇えた皆さんは、大変深い仏縁に恵まれているのです。
“軽い気持ちで聞き始めただけ”という人もあるかもしれませんが、聞法を重ねていくと、「本当に聞き難いことであった」
と知らされ、尊い仏縁を喜ばずにおれなくなってきます。
大目的を果たすのは「今」
「人身受け難し、仏法聞き難し」
この二大難関を突破して、今、あなたは人間に生まれ、仏法を聞いている。
今、幾億兆年にもないチャンスが巡ってきたのです。
“今日は用事があるし、仕事や家事も忙しいし……聞法はまたの日に”などと言っている場合ではありませんね。
いつ仏法聞くのか?
いつ救われるのか?
今である。
とお釈迦さまは仰っています。それが、
「この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」
のお言葉です。
この多生永劫の目的を知ったならば、いかなる人生の荒波にもまれても
「大目的を果たすため、乗り越えなければ」
と力が湧いてくる。
あるかないか分からぬ幸福の足音を胸つぶれる思いで待つ日々は、今ハッキリする弥陀の救いに向かってたくましく前進する人生に大転換いたします。
「ハズレくじ」の人生は雲散霧消し、「大当たり」の一生が開けます。
「何で俺を生んだのか」の恨みが、
「生んでくれてありがとう」の感謝に転回するのです。
その身に救われるのは、仏法は聴聞に極まる。「人間に生まれたのはこのためであった」と生命の歓喜を獲るところまで、真剣に仏法(阿弥陀仏の本願)を聞き抜きましょう。
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