法の光に照らされて知らない〝私〟が見えてくる(前)
介護で知らされる「悪人正機」の真の意味
親鸞聖人の教えといえば「悪人正機」。
あまりにも有名です。
「正機」とは「人間の正しい機ざま」の意であり、「本当の人間の相」ということですから
「悪人正機」とは、すべての人間は悪人であるということです。
その悪人こそが救われる教えが親鸞聖人の教えなのです。
 
“えっ?私が悪人?”と最初は戸惑う人も多いでしょう。
悪人と聞けば、法律や倫理道徳に背いている人のこと、と皆思っているからです。
前科もないし、周りからもいい人と言われている私のどこが悪人か、と。
ところが仏法を聞き、教えのとおりに光に向かっていくと、知らなかった自分に出会うことになる。
その時、聖人の仰る
「悪人」の真の意味が知らされるのです。
私が出会う「私の知らない私」とは、どんな相なのでしょう?
 
「私はすっきりした心の人間だと思っていましたが、仏教を勉強していくと、
私の心に染みついているイヤな根性を刻々と感じます。
強い気性で他人を傷つける言葉を言い、いつも後悔するのです」
「仏教通信講座」を学んでいる愛知県の女性(83)からのお便りです。
 
「私って、何て嫌な人間だろう……」
「私の中に、こんな醜い心があったのか」
と知らされハッと驚いた経験が、皆さんにもあるでしょうか。
仏法の教えに従って、真面目に光に向かう人ほど、欲・怒り・愚痴いっぱいの心が知らされます。
そして、「こんな醜い心を抱える私は、幸せになどなれないのではないか」という心境になるのです。
そんな人たちに親鸞聖人は「あきらめなくていいよ」とこう励まされています。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
「かなしむな」「なげかざれ」のお言葉は、悲しんでも嘆いてもいない人には、ピンとこないでしょう。
自分の心をよく見つめることが、まず大切です。
今回は「介護問題」を通して、自己の「心」を見つめましょう。母親を介護しているある女性の手記を紹介します。
「立派に母を介護してみせる」、しかし現実は──
私は五年前から仏教を学んでいる五十代の主婦です。実家で認知症の母親を介護して二年になります。
夫と社会人の息子のいる自宅までは車で二時間弱ですが、今は週に一度戻るのがやっとの状態です。
母は、若くして夫に先立たれ、女手一つで私を育ててくれました。
八十を過ぎても畑仕事に精を出し病院とは無縁の生活でした。
それが二年前に、外出先で転倒して骨折。二カ月の入院生活を余儀なくされたのです。
以来、足腰は見る見る弱り、軽い認知症も出始めました。
退院後、実家で母を世話することに、私は何の迷いもありませんでした。
永らく介護の仕事をしていたので知識もある。
「お母さんには今まで苦労をかけたもの。今度は私が世話する番よ」
と自信いっぱい、意気揚々と介護を始めたのです。
病気なのだから……頭では分かってるけど
ところが、その自信はあっけなく打ち砕かれました。
ある日、歩行訓練をしようとした時のことです。
私「さあ、今日も歩く練習をしよう」
母「足が痛いからイヤ!」
私「このままじゃ歩けなくなっちゃうよ」
母「じゃあ、歩けなくてもいい」
私「そんなワガママ言わないで、ちゃんと練習しなくちゃだめ!やればできる!」
病気なのだから無理もないと頭では分かっているのに、いざ母を目の前にすると、きつい口調になってしまうのです。
母は料理上手だったのに、得意な肉じゃがも作れなくなりました。
服を着るにも、どこに手を通せばよいか分からず、一人で着替えができません。
家中は貼り紙だらけ。「このプラグ抜いちゃだめ」「このスイッチは押さないで」等々。
それでもテレビのプラグを抜いてしまい、抜いたことすら忘れて
「テレビがつかない。壊れた、壊れた」と大騒ぎするのです。
日常の簡単なことすら次々とできなくなっていく母。私は無力感に襲われました。
仕事なら、どんなにつらくても仕事と割り切れる。しかし実の親の介護となると全く勝手が違いました。
〝早く楽になりたい……〟そう思うのは私だけ?
最近もこんなことがありました。買い物に出掛けている間に、携帯の着信が三十回。
留守電にも「早く帰ってきて」と母の怒りの声。
急いで帰宅し、すぐ夕食の支度をしました。
母はテレビばかり見ています。
 
ムッとした私はつい、「箸ぐらい準備してよ!」
言ってから「しまった」と思っても手遅れです。
母は急に不機嫌になり、ベッドに潜り込んでしまいました。何度呼んでも起きてきません。
仕方なく独りで食べ、後片付けも終えた頃、母は起きてきて何事もなかったようにお菓子を食べ始めました。
もう私は怒る気力すら萎えてしまうのでした。
精神的に不安定だと、母が夜中にわめいたり、物を投げつけてくることも少なくありません。
「いい加減にして!」
私はいつしか、手を上げるようにもなってしまいました。
もう嫌だ、こんな日々、いつまで続くのだろう……。
お釈迦さまが『仏説父母恩重経』に親の恩の重いことを教えられているのに、私はそのお話をお聞きしているのに、母に対してひどいことを言い、叩いてしまう。
私には親の恩に報いようという気持ちがないんだ。
自分が楽になることしか考えていない、何てあさましいんだろう。
やってみて初めて知らされる
ふと、以前に「仏教講座」に参加した時のノートを取り出し、ページをめくってみました。
そこには親鸞聖人の『末灯鈔』のお言葉がありました。
親をそしる者をば五逆の者と申すなり(末灯鈔)
大恩ある親を殺すのは、仏教で「五逆罪」といわれる重罪です。
だが手にかけて殺すばかりが親殺しではない。
「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも五逆罪なのだよ、と親鸞聖人は教えられている。
また仏教では、行為といっても、身・口・心の三つの行為をいいますが、中でも最も重く見られるのが心の行いです。
「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」
といわれるように、最も恐ろしいのは「心で殺す罪」。
心で親を邪魔者扱いする五逆罪は、「無間業」といわれる大変恐ろしい罪だと教えられているのです。
 
都合が悪くなると、心で母を邪魔だなあと思う……。
これも五逆罪に間違いない。そんな恐ろしいことを思い続けながら、上辺はいかにも親の恩を感じているように取り繕っている。
誰にも言えぬ、こんな罪深い私はどうして救われようか。
私、絶対幸せになんかなれない!
やってみて初めて知らされる己の心に、恐れおののきました。
ところが親鸞聖人は
「そんな極悪人こそが、阿弥陀仏の正客(お目当て)なのだよ」
と仰るのです。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
「阿弥陀さまは、苦悩の根元・無明の闇を必ず破ってくださるから、決して悲しむことはない。
どんな悪人も、苦しみの海から必ず大船に救いあげてくださるから、罪の重さを嘆かなくていいんだよ」
 
希望の光を与えてくださった方は、やはり親鸞さまでした。
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