悔いのない人生の選択をするには|仏教で教えられる人生の選択(前編)
「第二の人生」
「未来をよりよくしたい」
それは、年齢や境遇に関係なく、誰もが抱く思いでしょう。
そんなあなたに仏教は、「限りなく明るい未来」を約束しています。
そのための「悔いなき選択」とは何か。
親鸞聖人にお聞きしましょう。
第二の人生どう過ごす!?
「四十五年間、一生懸命働いてきたが、何も残っていない。六十を過ぎて八十まで生きられるとすると、あと二十年。このまま死んでいくだけなのだろうか…。何か心のよりどころが欲しい」
永年勤め上げて定年を迎え、“やり切った”と来し方を振り返りつつ、第二の人生に向け、新たな出発を迎えている方もあるでしょう。
「定年後の自由な時間」について、ある人がこう言っています。
“現役時代、週休二日で四十年勤めた人の過ごした休日は四千四百日。六十歳で退職し、八十歳までの二十年間は七千三百日。定年後のほうが圧倒的に時間が多いのです。この時間を上手に活用し、充実した第二の人生を過ごせるかどうか、それが大問題です”
引退とともに自由な時間を手にしたといっても、少々の無茶もできた若い頃と違い、経済や健康などあらゆる面で、不測の事態に備えねばならなくなります。
人生は有限であり、終末を意識すれば、残された時間はそう多くはない。
その中で、悔いなき選択をどうすればよいのか。
尺取り虫と流転輪廻の人生。結局、死ぬのになぜ生きる?
平凡な毎日が飛ぶように過ぎ去る中、ふと我に返り「なぜ生きる」という問いに目覚めることがあります。
「一生懸命働いてきたが、何も残ってない」と、漠とした思いに沈む人も少なくありません。
その、もやもやした心の出どころはどこにあるのでしょうか。
「生命の歓喜」ありますか?
ある五十代女性向け雑誌に、「自由もある。夢もある。でも不安もある」というキャッチコピーがありました。
仕事や子育てを終え、やっと手にした自由な時間を、若い頃できなかった趣味や芸事に使いたいと考える人も多いでしょう。
ところが、しばらくやっても次第にむなしくなり、後が続かなかったという話をよく聞きます。
夢や目標を達成した満足感は一時的で、やがて単なる記憶に変色します。
そんな目標だけを追い続ける一生は、どうなるでしょう。
目標を果たせば「達成した」という一時の満足はあっても、時間とともに薄れ、またスタート地点に逆戻り。
「今度こそ……」と、さらなる労苦が始まります。
一点の周りをグルグル回るのみで、「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜には永久にたどり着けません。
考えてみれば、これは悲劇です。
安心・満足というゴールがなく、果てしなく同じ所を回り続けて苦しむさまを、仏教で「流転輪廻」といわれます。
流転も輪廻も、車の輪が回るように苦しみから離れ切れないこと。
人生の本質は「流転輪廻」であることを、中国の曇鸞(どんらん)大師という方は、
「蚇蠖(しゃっかく)の循環するがごとし」(浄土論註)
と例えられています。
蚇蠖とは尺取り虫です。
以前、円い桶に突き当たった尺取り虫が、桶の周りをはっているのを見たことがあります。
伸びたり縮んだり、虫は虫なりに一生懸命ですが、いつまでも桶を回り続けている姿には、何ともいえぬ悲哀を覚えました。
仏教では人間もこの尺取り虫と同じだと説かれているのです。
虫と同じ?そんなバカな、と思われるかもしれませんが、
「人生は 食て寝て起きて クソたれて 子は親となる 子は親となる」
「越えなばと 思いし峰に きてみれば なお行く先は 山路なりけり」
毎日毎日、食て寝て起きてを繰り返し、子は親となって、あっという間にじいさん、ばあさんとなる。
その間、受験や就職、結婚、マイホーム、ローン返済と、
「この坂を 越えたなら しあわせが 待っている」★「夫婦坂」:星野哲郎、歌:都はるみ
と信じて、幾つ坂(目標)を越えてきたことか。
果たして心からの幸せは得られたでしょうか。
どれも人生のゴールではなく、一時の通過点ではなかったでしょうか。
どこまで頑張っても本当の満足に届かない、そんな人生を「蚇蠖の循環するがごとし」と言われているのです。
なぜ、夢を実現してもむなしいのか
なぜ、夢を実現してもむなしいのか。
その根っこはどこにあるのでしょう。
作家の猪瀬直樹氏は、こう述べています。
「毎日があわただしくて、なにかどこかに忘れものをしてきたように感じてしまうのは、仕事が忙しいという理由だけだろうか──。
疲れが躯の芯にたまって消えないのは、いつも妻や子供のことなどなにくれとなく考えているせいなのか──。
どれもこれもそのとおりだが、それだけではない。
ほんとうは身近に枯葉のようにおびただしい死が累積していることに見て見ぬふりをしているからである」(死を見つめる仕事)
何をやってもむなしさが消えず、流転輪廻を果てしなく繰り返しているのが私たちの実態ですが、その根本原因を、親鸞聖人はこう明らかにされています。
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(正信偈)
生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す
“苦しみ悩みに果てしがないのは、疑情(無明の闇)一つが原因である”
「生死輪転」も「流転輪廻」も意味は同じ。
家を離れては生きられないから、離れ切れない苦しみを「家」に例えられ、そんな苦しみの世界を行ったり来たりしていることを聖人は、「生死輪転の家に還来する」と仰っています。
これは、この世だけのことではありません。
私たちは果てしなく遠い過去から生死、生死を繰り返し、水車が回るように六道(迷いの世界)を輪廻していると仏教では説かれているからです。
今の流転は、永久の流転になるのです。
その果てしない流転の元凶を、親鸞聖人は次に「疑情一つ」とキッパリ仰っています。
「決するに」「所止と為す」の断言には迷いがありません。
疑情とは「無明の闇」ともいわれ、「なぜ生きるか分からない、死んでどこに行くのかも分からない後生(死後)暗い心」をいいます。
この「無明の闇(疑情)」こそが、昿劫流転(こうごうるてん)の元凶であると、聖人は断定されているのです。
そして苦しみの根元であるこの闇は、弥陀のお力によって必ずブチ破られる、と親鸞聖人は教えられています。
*昿劫……気の遠くなる長期間
まとめ
◎ 人生の本質を仏教は、尺取り虫のように同じところを回り続ける「流転輪廻」といわれます。
◎ その流転の元凶を親鸞聖人は、「疑情(無明の闇)」一つと教えられています。
後編はこちら
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