やられたらやり返す?|仏教では「やられてもやり返さない」
「やられたらやり返す。倍返しだ!」で有名なTBSで放送されたドラマ「半沢直樹」。
初め2013年に放送され、その続編が2020年に放送されました。
主人公の「半沢直樹」が会社や上司から嫌がらせや理不尽なことをさせられたときに言う台詞「倍返しだ!」は非常に話題となり、その後様々なメディアや日常会話でも使われるほどでした。
それに対して「やられてもやり返さない 仏教だ」と書いたのは築地本願寺の掲示板です。
元は教育系YouTuberで有名なオリエンタルラジオの中田敦彦さんが、「【築地グルメ】半沢さん…やられてもやり返すな仏教だ&中田の子育て論」というタイトルの動画内で発言した言葉です。
私たちが誰かから理不尽なことをされたときは「この恨み晴らしてやる」と思いますが、仏教ではなぜやり返さないのでしょうか。
自業自得
仏教の根幹となる教えを因果の道理と言います。
「因果」とは、「原因」と「結果」ということです。
「道理」とは、いつでもどこでも変わらないものを言います。
ですから「因果の道理」とは、どんな結果にも必ず原因がある、原因のない結果は万に一つもない、それはいつでもどこでも変わらないということです。
中でも私たちが最も知りたい、運命の原因と結果の関係についてお釈迦様は
「善因善果、悪因悪果、自因自果」
と教えられています。
「善因善果」とは、善い因(行為)は、善い果(幸福や楽しみ)を生み出すということです。
「悪因悪果」とは、悪い因(行為)は、悪い果(不幸や苦しみ)を引き起こすということです。
「自因自果」とは、自分に現れる善果も悪果も、すべて自分のまいた因(行為)によるものですから、自分が刈り取らなければならないのは当然ということです。
他人のまいた因が、自分に果として現れるという「他因自果」ということもなければ、自分のまいた因が、他人に果として現れるという「自因他果」も、絶対にないと教えるのが仏教の自因自果の教えです。
自因自果を自業自得ともいいます。自業自得とは仏教から出た言葉です。
自分に悪い結果がきたとき、自分が悪いことをしたからだと思えば、恨みの心は起きてきません。自分は悪いことをしていないのに、あいつのせいだ、こいつのせいだと思うと、恨みの心が起きてきます。
なぜ「やり返さない」のか
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。」(法句経)
仏教を説かれた釈迦の言葉です。
「怨みに報いるに怨みを以てする」とは、怨みの心から仕返しをする、倍返しをすることです。
そうすると「ついに怨みの息むことがない」、仕返しされた相手は、こちらを怨み、また、仕返ししてくるだろう、ということです。
また、更に仕返しすると、また、仕返しされる、怨みの連鎖は止むことはなく、お互いに苦しみ続けます。
釈迦は自分に悪い結果が現れたならば、自分の過去の悪い行いの結果と受け止め、仕返しや倍返しをしてはならないと教えられたのです。
仏教では「やられたらやり返す」ではなく、「やられてもやり返さない」と教えられるので、「やられてもやり返さない 仏教だ」という言葉が築地本願寺に掲示されたのでしょう。
「やられたらやり返す。倍返しだ!」とは全く逆の、こんな話があります。
室町時代に浄土真宗を日本中に広めた蓮如上人のお弟子の中に、富山県五箇山赤尾谷で活躍した赤尾(あかお)の道宗(どうしゅう)という人がありました。
道宗の熱心な布教により、道宗の寺には富山だけではなく岐阜からも参詣者が群参しました。
ところが、それを妬んだ他宗の僧が道宗の元に押しかけ、ちょうど庭の畑で草を取っていた道宗をいきなり後ろから蹴飛ばしました。
しかし道宗は、黙って起き上がり、そのまま仕事を続けます。
ムッとした僧は再びもっと強く蹴りを入れましたが、道宗はニコニコしたまま。
「あなたは私にこんなことをされて腹が立たないのか」
たまりかねた僧が聞くと、道宗は静かに答えました。
「あなたにこんなことをされるのは、きっと私が過去世にあなたにしたからでしょう」
威徳に打たれた僧は前非を詫び、道宗を師と仰いで浄土真宗に帰したといいます。
因果の道理についてはこちらの記事で詳しく解説しています。
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