武田信玄が大事にしていた観音菩薩像|観音菩薩とはどんな菩薩?
平成31年1月16日にフジテレビ系列で放送された番組「何だコレ!?ミステリー」の中で武田信玄の遺品の観音菩薩像が紹介されていました。
武田信玄といえば戦国武将の中でも多くの人に知られる有名な武将ですが、武士である武田信玄の遺品になぜ観音菩薩像があるのでしょうか。一体、どんな関係があるのでしょうか。
なぜ武田信玄の遺品が観音菩薩像?
武田信玄の遺品があるのは、長野県下伊那郡阿智村にある長岳寺というお寺です。
武田信玄といえば甲斐国、今の山梨県を拠点にしていた武将です。
父親の信虎から跡を継いだ信玄は信濃国(今の長野県)に侵攻し、北の上杉氏、東の北条氏、南の今川氏を牽制しつつ領土を拡大していきます。
今川義元が織田信長に滅ぼされて、今川領であった駿河(今の静岡県東部)に侵攻した信玄は、次に遠江(今の静岡県西部)・三河(今の愛知県東部)へと兵を進めます。
そこで遠江・三河を支配していた家康との間で起こったのが三方ヶ原の戦いです。
信玄は三方ヶ原の戦いで勝利しますが持病が悪化して撤退を余儀なくされ、甲斐国(今の山梨県)に帰る途中で亡くなってしまいます。
それが今の阿智村だったため、そこのお寺に遺品が残っているのです。
気になる遺品は5cmほどの銅製の観音菩薩像です。
これは兜仏と言われるもので、お守りとして兜の中に入れるものだそうです。
武田信玄は仏教に関心が強く、信長により比叡山が焼き討ちにあった後に天台座主(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の住職のこと)を甲斐国に呼んで延暦寺を再興させようとしたり、戦場に600人の僧侶を同伴させたりしています。
武田信玄は甲斐国の国主として上杉、今川、北条、徳川など周囲の有力武将と戦い、打ち破ってきました。
戦争である以上は味方も敵も多くの人が死にます。
信玄は戦のならいとはいえ、戦いの中で死んでいった人たちに、死後極楽浄土へ往生してほしいと願っていたからではないかと番組内では紹介されていました。
観音菩薩と極楽浄土との関係は?
ここで疑問なのは、なぜ死んだ人に極楽浄土へ往ってもらいたいから観音菩薩像をお守りとしていたのかということです。
観音菩薩とはどんな菩薩なのでしょうか。
観音菩薩とは阿弥陀仏という仏様の脇士(わきじ)の菩薩です。
阿弥陀仏についてはこちらの記事をご覧ください。
脇士とは仏の智慧と慈悲を表す菩薩で、絵や仏像では中心に仏様が置かれ、その両脇に2人の菩薩が控えている構図になっています。
観音菩薩は阿弥陀仏の慈悲を表す菩薩です。
阿弥陀仏という仏様は「すべての人よ 我を信じよ 必ず救い摂る」と約束されており、この世で阿弥陀仏に救われた人は死後極楽浄土へ往生できると教えられています。
そのためその慈悲の心を表す観音菩薩は古来より信仰を集め、信玄も観音菩薩像を兜にお守りと忍ばせていたのではないかと思われます。
こちらの記事でより詳しく、観音菩薩について解説しています。
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