“不退転の覚悟”はどれほど揺るがないのか|仏教の不退転の意味(中級)
以前政治家が「私は不退転の覚悟で臨みます」と言っていました。
退は“しりぞく”、転は“ころがる、ころげる”という字ですから、何があっても屈しないという意味の言葉です。
そもそもこの「不退転」という言葉は経典に出てくる言葉です。
経典では不退転はどのような意味で使われているのでしょうか。
経典に出てくる「不退転」
『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』というお経には次のような言葉があります。
不退転に住(じゅう)す
現在、生きている時に、阿弥陀仏のお力によって絶対の幸福になったことを「不退転に住す」と言います。
絶対の幸福とは絶対に変わらない幸福のことです。
この絶対の幸福のことを金剛心(こんごうしん)ともいわれます。
金剛とはダイヤモンドのことです。ダイヤモンドは非常に硬く、壊れませんので、変わらない幸福を表すために金剛心と言われています。
金剛心を表すエピソード
こんな話が伝わっています。
今から約500年前に蓮如上人(れんにょしょうにん)という方が福井県の吉崎御坊(よしざきごぼう)で、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えを伝えておられました。
吉崎御坊から少し離れた村に”きよ”という女性がいました。
主人と子供に先立たれ、人生のはかなさを知らされたきよは本当の幸せになりたいと蓮如上人のご説法を聞きに吉崎御坊に通うようになり、やがて絶対の幸福を喜ぶようになりました。
ところが、きよの姑は仏教嫌いだったので、毎日のように吉崎御坊に通う嫁が気に入りません。
きよが吉崎へ行こうとすると、米を臼で引いて粉にする仕事を言いつけて、外出するのを邪魔しました。
米を臼でひいて粉にするのはかなりの重労働で男性がやっても大変です。
とても女の力ではすぐには終わらないだろうと姑は思ったのです。
ところがきよは吉崎に行って蓮如上人のお話を聞きたい一心で一生懸命に仕事をするので、瞬く間に仕事を終わらせて吉崎に行ってしまいました。
翌日もきよが吉崎に行こうとすると、昨日の倍の量の米を臼で引いて粉にする仕事を言いつけました。
ところがきよはますます一生懸命に仕事をするので、瞬く間に倍の量の仕事も終わらせて、吉崎に行ってしまいました。
仕事を言いつけるだけでは嫁を止めることはできないと思った姑は一計を案じました。
翌日、きよが吉崎に出かけると、姑は先回りして人気のない暗い山道のそばの茂みに身を潜め、嫁が来るのを待ちました。そしてきよがやってくると用意しておいた鬼の面をかぶり、きよの前に躍り出て叫びました。
「こら嫁女、食い殺すぞ!」
これで嫁は恐れて吉崎には行かなくなるだろうと考えたのです。
ところがその時、きよは
食(は)まば食(は)め 喰らわば喰らえ
金剛の 他力の信には よもや食(は)むまじ
と詠んでひるむことなく吉崎に向かって行ってしまいました。
その日のご説法が終わって家に帰ると、なんと家の中に先ほどの鬼がいるのです。
びっくりするきよに鬼は泣きそうな声でこう言いました。
「きよ、わしじゃ。許してくれ、お前を脅して吉崎へ行くのをやめさせようとしたのだが、面が取れなくなってしまった」
姑と分かったきよは鬼の面を外そうとしますが、面に皮膚が引っ付いたようで外れません。
そこできよの提案で蓮如上人のご相談をしに、2人で吉崎に行きました。
話を聞かれた蓮如上人は仏教の尊さを懇切に話されました。
仏教の尊さが知らされた姑は、その仏教を聞きに行くことを邪魔する恐ろしさが知らされ、
「こんな尊い仏教を聞きに行くのを邪魔しようとしていた私は恐ろしい鬼であった」と懺悔の涙を流しました。
するとその時、鬼の面がポロっと取れました。
その後、姑もきよと共に蓮如上人のご説法を聞きに行くようになり、仲の良い母娘になったと伝えられています。
鬼に食い殺されそうになっても全く揺るがない、そんな喜びの心が絶対の幸福であり、不退転なのです。
不退転の覚悟で臨むと言いながら、反対されたり、支持率が低下したことで、撤回してしまうのは、仏教で言われる不退転とは全く異なります。
まとめ
仏教で言われる不退転とは、何があっても、たとえ命が危険にさらされようとも全く揺るがない幸福のことです。
何があっても変わらない絶対の幸福にならせていただきましょう。
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