お墓はどうしたら?手続や費用より根元的な不安に答える親鸞聖人のお言葉
こんにちは。
先日、仏教の講演会に参加していたときに知り合ったお爺さんが「うちの墓は遠くにあって、自分はいいけれど、これから息子や孫が面倒見てくれるのだろうかと考えると心配になる」と墓のことでの悩みを話されていました。
お墓の面倒を子供や孫がみてくれるか不安
私がこれまで知り合ってきた中にも、お墓のことで悩みや心配を抱えていることを話す方がいました。
「嫁いでしまった娘しかいないので、私の墓の面倒を見てくれる人はいないのでないか」
「田舎に先祖代々の墓はあるが、遠いので世話ができない」
「子供には迷惑をかけたくない」
悩みの内容は様々ですが、よくよく話を伺ってみると、これらの悩みの元にあることの1つは、
「親や先祖の墓や納骨についてちゃんとしないと何かやくよくないことがあるのでないか」
「自分も墓や納骨がしっかりとなされていないと、いい処にいけないのでないか」
ということのようです。
「墓や納骨に関しての法律や手続き、費用については、様々な書籍が出ており、とても分かりやすいが、より人間の根元的なところから出るこれらの疑問や不安に仏教の教えから答えてもらいたい」とのお気持ちだと感じました。
(私の接してきた方は浄土真宗の方が多かったので、浄土真宗で言われることを中心に話を進めていきます)
お墓はきちんと管理しないといけない?
某(親鸞)、閉眼(へいがん)せば賀茂河にいれて魚に与うべし
『改邪鈔(がいじゃしょう)』
(意訳)
私が死んだら、賀茂川へ捨てて、魚に与えよ
と常に仰っておられました。
かなりびっくりする内容だと思います。
中には、親鸞様は自然にかえるのがいいと言われたのだと思う人もあるかもしれませんが、このお言葉は、墓や遺骨の取り扱いによっていい所にいけるかどうかが変わるものではないし、バチが当たるということもないのだと仰ったお言葉なのです。
仏教は生きている人が、本当の幸せになる道を示されたものです。
墓が悪いから、死んだ人が浮かばれないとか、バチが当たるなどということは仏教では教えられていません。
墓をどうするかを決めるには、亡くなった方が遺された私たちに何を望んでおられるか。
私が子供や孫に何を望むのかということを考えてみることから始めたらいいかもしれません。
墓について考える上でのヒント 墓参りの意義は何?
墓について考える上でのヒントになると思いますので、最後に墓参りの意味を紹介したいと思います。
浄土真宗では、墓参りは本当の幸せになる大切なきっかけになると言われます。
無常を観(かん)ずるは菩提心(ぼだいしん)の一(はじめ)なり
という言葉が仏教で言われます。
無常とは常が無いということで、今の生活もずっとこのまま続いていくということはない。
当たり前の生活が崩れ、やがて私の命も終わっていくということです。
その現実をありままに見ていく(観ずる)ことが、菩提心(本当の幸せになりたいという心)の第一歩だと言われています。
2016年の交通事故死者は約3900人と言われますので、それだけ多くの人が突然この世を去っています。
それらの方の遺族を考えれば、何万人という人たちが悲しみに沈んでいるかしれません。
まとめ
それなのに私たちは毎日いろいろなことに忙しく過ごしていて、今の生活が終わってしまうことがあるとは考えていないのではないでしょうか。
世の中、忙しくなるほど、人生を振り返る“間”が必要ではないでしょうか。
静かに自己を振り返る時間がほしいものです。
その点、墓前に静かにぬかずくときは、人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「私も死なねばならないのか」と思われ、厳粛な思いがするのではないでしょうか。
多くの人が気にしているお墓のことについて少し違う視点から話をしてみました。
自分一人だけのことではないので、簡単には決められないことでしょうが、「墓をどうするかを決めるには、亡くなった方が遺された私たちに何を望んでおられるか。私が子供や孫に何を望むのかということを考えてみること」が大事なことなのです。
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