親鸞聖人の教えに照らされて知らない〝私〟が見えてくる(後)
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闇夜に光る唯一の灯炬、すべての人を必ず救う大船あり
お釈迦さまは
「父母の大恩、山より高く、海よりも深い」と教えられています。
その厚恩に報いようと努めていくと、知らされる自己の醜さ。そんな私に救いはあるのでしょうか。
父母なくして、私がこの世に生まれることはできなかった。
そんな大恩ある方なのに、いざ親が寝込むと介護は大変だからできればしたくない、誰かにやってもらいたいと思いがちです。
しかし、仏法を求める人にとって親の介護は、いかんともしがたい己の心を知らされる貴重な体験ともなりましょう。
本当の自己を知ることは最も幸せに近いのです。
お釈迦さまは
「仏教は法鏡なり」
と仰っています。「法鏡」とは“法”は真実、私の真実の姿を映し出す鏡である、ということです。
七千余巻の一切経の中で、親鸞聖人は
それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり
(教行信証)
と断定されています。その『大無量寿経』には、私たちの実相がこのように説かれています。
心常念悪、心常に悪を念じ
口常言悪、口常に悪を言い
身常行悪、身常に悪を行じ
曽無一善、曽て一善無し
(大無量寿経)
すべての人間は、心も口も身も、常に悪ばかりで、いまだかつて一つの善もしたことがない。
法律や倫理道徳では、身の行いや口から出た言葉で善悪を判断され、心で何を思っているかはほとんど問題にされません。
しかし仏教は、心をいちばん重視するところが、全く違うのです。
私の姿とは、私の心の相。自分の心が分からなければ、幸せな心にはなれませんから、仏教は私の心の実態を教えられているのです。
心をのぞけば何が見える
一体、私たちの心は、日々どんなことを思っているでしょう。貪欲・瞋恚・愚痴の塊で、常に悪を思い続けていると、お釈迦さまは、教えられます。
貪欲とは、金が欲しい、物が欲しい、男が欲しい、女が欲しい、褒められたい、認められたいとお金や異性や名声に手を伸ばし、どれだけかき集めても満たされず、もっと欲しいと求める心です。
「財色を貪狼す」
飢えたオオカミが獲物を貪るようだとお経には説かれています。
外見は紳士・淑女を演じながら、内心は喉から出そうな欲望の手を必死に抑えているのが私ではないでしょうか。
こんな話がありました。
病気の老父が、面倒を見てくれていたヘルパーさんと再婚したいと息子に切りだした。
しかし、息子夫婦は父の遺産の半分が結婚相手に渡ってしまうのを阻止したい。
事業も傾きかけていた息子らが「結婚しても相手に苦労をかけるから」と言って結婚に猛反対。
親の死を計算し自分の欲ばかり考える子供に、父親はどんな思いがしたことでしょうか。
欲望のままにならないと、噴出するのが瞋恚(怒り)です。
積み上げた学問も修養も一瞬で焼き尽くし、人を傷つけ、恨み憎しみの愚痴となってはトグロを巻く。
テレビや新聞で報道される犯罪に驚かぬ日はありませんが、どれも皆、人間の心の仕業です。
すべての人間の心に貪欲・瞋恚・愚痴の鬼がすむのだと、仏さまはスッパ抜かれています。
親鸞聖人は、ご自身の激しい罪悪をこう懺悔されています。
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
(悲歎述懐和讃)
悪性はやめがたく、ヘビやサソリのような恐ろしい心だ。こんな心でやる善行だから、毒の雑じったウソ偽りの善といわれて当然である
無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峯岳山にことならず
(正像末和讃)
欲や怒りや愚痴の煩悩は体一杯。
激しく毒を噴き、自分の思いどおりになる者はかわいく思って近づけるが、反する者には憎悪の念が噴き上がり、嫌って遠ざける。
そんな心が大きな山ほどあるのが親鸞だ。
分かっちゃいるけどやめられない
善に励み、悪をやめようと努めるほどこの悪性の根深さを知らされます。
悪業をば恐れながらすなわち起し
善根をばあらませども得ること能わざる凡夫なり
(口伝鈔)
悪を造らぬようにと恐れながら犯し、善をしようと欲しながらできないのが人間である
法律家が法を犯し、
警察官が万引きをし、
教師が盗撮で逮捕される。
理性や教養では、どうにも止められない人間の悪性をお釈迦さまは2600年前から、教えられているのです。
罪業が重く、一生不善の我々人間は、大宇宙の諸仏方に見捨てられたと、蓮如上人は『御文章(御文)』に記されています。
十悪・五逆の罪人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり
十悪とは、欲や怒り、愚痴の心。
ウソや悪口、殺生(生き物を殺す)、偸盗(他人の物を盗む)、邪淫(邪な男女関係)などの十の悪をいいます。
「五逆」とは、大恩ある親を殺す罪で、十悪よりも恐ろしい無間業(無間地獄へ堕ちる種まき)だと教えられます。
真剣に親孝行しようとして初めて親不孝ばかりの己に泣かされる、真心尽くして親を介護しようとして初めて噴き上がる己の悪性に愕然とさせられるのです。
悪人を浮かばせる 大船あり
こんな極悪人は救いようがないと、十方諸仏にも見放された我々を「私が必ず救ってみせよう」とただ一人、立ち上がられたのが、諸仏の本師・師匠である阿弥陀仏です。
ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して
(御文章二帖目八通)
智慧の眼がなく、罪業の鎖に縛られて苦悩から逃げ出せぬ私たちを本師本仏の阿弥陀仏だけが「誰が見捨てても、我は見捨てぬ。必ず助けてみせる」と今も呼び続けられているのです。
真っ暗な人生の海に、明々と灯炬を掲げ苦海を渡す大船を造られ「おまえを必ず乗せて極楽浄土へ連れていくぞ」と阿弥陀さまは誓われています。
その大船に乗せていただくには、どうすればよいのでしょう。
「仏法は聴聞に極まる」
聴も聞も、きくということですから仏法を聞く一つで助かるのです。
仏法を聞かねば地獄行きのタネしか持たぬ極悪の身とも知らず、そのまま救う弥陀の大船には乗れませんから助かりません。
生死の大海を渡す大船に乗せていただき、苦難の涙が歓喜の法悦と転じる人生を歩ませていただきましょう。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(正像末和讃)
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