『歎異抄』が語る絶対の幸福|人生の終末にも輝く喜びを得る
「大阪万博」。
この言葉の響きに、懐かしい思いを抱く人も少なくないでしょう。
高度成長期の1970年、日本で初めて開かれた「万国博覧会」には、民族の大移動ともいわれた6400万人もの人が訪れました。
経済的繁栄こそがバラ色の未来を実現すると信じられていた時代。
あれから半世紀が過ぎ、2025年に再び大阪万博が開かれることが決まりました。
しかし振り返ると、経済発展は遂げたものの、私たちは「幸せ」になったといえるでしょうか。
成長神話が崩れてしまった今、幸せの実感が乏しい原因は何か。
本当の幸福とはどこにあるのか?
いま一度、立ち止まって考えてみませんか。
大阪万博から約50年たちました
万博のテーマソングが三波春夫の歌声に乗って街角に流れる中、1970年3月、世界77カ国が参加した大阪万博が大阪・吹田市で開幕。
「人類の進歩と調和」をテーマに、会場には、動く歩道、月の石、宇宙船、コンピューター、ロボット、レーザー光線……などが展示され、万博はまさに「夢の未来」でした。
その後、そこに提示された未来像は、次々と実現されてきました。
当時の人気アニメ「鉄腕アトム」のように、人型ロボットは人工知能で人間と巧みな会話もこなします。宇宙ステーションもでき、宇宙旅行には民間企業も参入。庶民に無縁だったコンピューターも、今やパソコンやスマホが個人のものとなり、車も自動運転の時代を迎えています。
明らかに、あの大阪万博の頃より世の中は、便利で、物も豊かになりました。
しかし、「あの頃より、幸せになったなあ」という、実感が湧かないのが本当ではないでしょうか。
「長生きが怖い」
くしくも、今度の万博が開催される年には、「2025年問題」といわれる問題が指摘されているのをご存じでしょうか。
2025年に、昭和22~24年(1947~1949年)に生まれた「団塊の世代」がそろって、75歳以上のいわゆる「後期高齢者」となり、超高齢社会が本格化するのです。
その数は2180万人。日本人の5人に1人が後期高齢者になる計算です。
数の少ない若者が、大勢の高齢者を支えるので、そもそも国として成り立つのか、十分な福祉サービスが受けられるのか、様々な不安が入り交じり、「長生きするのが怖い」という声すら聞こえてきます。
『長生き地獄』(SB新書)の著者、松原惇子さんは次のように語っています。
これまでの日本では、長生きが幸せだと考えられてきた。しかし、超高齢社会を迎えた現在、わたしたちの頭をよぎることは、長生きは本当に幸せなのかという疑問だ。長生きという言葉は美しいが、長く生きることは、朽ちる時間が長くなること。つまり、辛い時間が長くなること。それでも長生きしなくてはいけないのか考えさせられる
一生懸命働いて経済発展を遂げ、高度な医療も受けられるようになり、平均寿命は大きく延びましたが、せっかく手に入れた「寿命」も、それがありがたいのか、ありがたくないのか、分からなくなってしまったのです。
はた目には幸せに見えても
それだけではありません。
せっかく延ばした命を、自ら縮める人が昔より多くなっているのです。
現在も、日本では依然として毎年2万人以上が自ら命を絶っています。
英国でも、あまりに自殺がなくならないため、昨年、政府内に「自殺予防担当相」まで新設して取り組みを始めたほどです。
自殺に至る理由は、必ずしも借金や病気で「生活に行き詰まったから」というものではありません。
例えば、『朝日新聞』が掲載した「100人の20世紀」に選ばれた1人に、ナイロンを発明した米国のウォーレス・カロザースがいます。
彼は、ナイロンの開発で莫大な財産を築き、勤務先のデュポン社からも破格の待遇を受けていました。その中には「生涯、どこへ旅行し、どんな高級レストランで飲食しようが、費用の一切は会社が持つ」というユニークなものまであったそうです。
はたから見れば、羨ましい限りで、私たちが思い描く「幸福」というものを全て体現したかに見えますが、彼もまた41歳の若さで自殺しているのです。
もし、お金や財産に恵まれ、他人から高く評価され、地位も保証されることで、幸せになれるのなら、カロザースの悲劇はありえないでしょう。
ただ見れば 何の苦もなき 水鳥の 足にひまなき わが思いかな(水戸光圀)
はた目には幸せに見えても、カロザース自身に幸せの実感はなく、生きていられないほど苦しかったということでしょう。
では、なぜ私たちは、思い描いた「幸せな未来」を実現したとしても、そこに期待したとおりの幸せを感じ取ることができないのでしょうか。
有っても無くても同じなの……?
これについて、お釈迦さまのお言葉に耳を傾けてみましょう。
〈人間は、金や財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことに苦しみ、有ればあることに苦しんでいる。有る者も無い者も苦しんでいることには変わりはないのだよ〉
と教えられているのです。
田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。有無同じく然り(大無量寿経)
有る人(お金や財産、地位・名誉に恵まれている人)が幸せで、反対にそれらの無い人は不幸なのだろう、と考えるのが普通でしょう。
ところがお釈迦さまは、
「そうではない。有る者と無い者とでは、苦しみの色が違うだけで、苦しんでいること自体は、少しも変わらないのだよ」
と仰るのです。
一体、なぜなのでしょうか?
人生の船が向かう
こんな場面を思い浮かべてみてはどうでしょう。
私たちは今、川を下る船に乗っている。
その川の行き着く先は「滝つぼ」です。
船の中では、好きな人と手をつないだり嫌いな人と争ったり、酒を飲んだり歌ったり、儲かった、損したと泣いたり笑ったりして暮らしています。
そんな日常は、それなりに楽しくもありますが、船内からは見えないだけで、乗っている船は実は、「滝つぼ」に向かって進んでいる真っ最中なのです。
「滝つぼ」とは、避けることのできない人生の終末を表しています。
これを人生の縮図とするならば、繁栄を夢みた1970年の大阪万博も、いわばこの船中の出来事の一つでしょう。
あれから約50年、船内の景色は大きく変わり、格段に便利で、物も豊かな暮らしぶりとなりましたが、それと引き替えに船は大きく「滝つぼ」へと近づいたのです。
政治、経済、科学、医学など、人間のあらゆる営みは、「無」から「有」への努力ですが、どれだけ努力しても、心の底に得体の知れない不安があり、幸福を味わえません。
それは「滝つぼ」という未来に向かって、刻一刻と船が進んでいるためなのです。
人生の終わりに明かりはあるか?
20世紀最大の哲学者といわれるマルティン・ハイデガーは、人間を「死への存在」といい、必ず死なねばならないから不安であり、いつ死ぬか分からないから不気味である。
この不安と不気味さこそ、人間が常に置かれている状態だと指摘しています。
今は、「毎日楽しいですよ」と言っている人も、いざ不治の病にでもかかり、病室で一人、死に向き合わねばならなくなると、不安と不気味さを実感させられます。
ではなぜ、死に向かうと、そんな暗い心になるのか?
突き詰めると、死んだらどうなるか分からない、ハッキリしないからだとお釈迦さまは教えられています。
死んだらどうなるか分からない心。これを仏教では、「無明の闇」とも「後生暗い心」ともいい、この心を抱えているから、何をやっても、何を得ても、心から幸せだと思えない。苦しみの元凶だと説かれているのです。
いのち輝く未来に
かつての万博会場に建った「太陽の塔」に関するドキュメンタリー映画を監督した関根光才さんは、『朝日新聞』のインタビューにこう答えています。
万博をテコに景気を良くするとか、単に大阪万博をもう一度やりたいとかいうのは、無意味です。(中略)経済至上主義とは別の価値を見せてほしい。それなら万博を誘致する意味があります
今度の大阪万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」です。
私たちの「いのち」が本当の幸福に輝く未来を実現するには、どうすればよいのでしょうか。
親鸞聖人のお言葉が記された古典で、名著の誉れ高い『歎異抄』。
そこには、人生を苦しみ色に染める元凶である「死んだらどうなるか分からない心(後生暗い心)」の解決の道を、関東から京都の親鸞聖人の元まで、命懸けで聞きに行った人たちのお話が記されています。
親鸞聖人は、この後生暗い心が、後生明るい心に生まれ変わった時、初めて命が無限に輝く「絶対の幸福」に生かされるのだと仰っています。
歎異抄についてはこちらの記事で紹介しています。
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