源信僧都は親孝行な方だった|往生要集を書かれた源信僧都はどんな方か?
日本史の教科書にも出ている源信(げんしん)は「源信僧都(げんしんそうず)」とも言われ、日本仏教史上、燦然と輝く存在です。
源信僧都が活躍された平安時代後期は、末法思想(まっぽうしそう)が広がり、しばらく前にあった世紀末思想のように、天変地異など、何か良からぬことが起きるのではないかと不安が蔓延した時代です。
20世紀末の世紀末思想は、科学が進歩した今日では、それほど影響はありませんでしたが、当時は、社会全体が不安に覆われていたと言われています。
その中、源信僧都が明らかにされた浄土仏教(じょうどぶっきょう)は、多くの人に心の平安をもたらしたのでした。
その源信僧都(げんしんそうず)について、紹介したいと思います。
源信僧都の主著『往生要集(おうじょうようしゅう)』とは
源信僧都の主著である『往生要集(おうじょうようしゅう)』は、地獄の様子を描いた地獄絵図が有名です。
地獄絵図だけでなく、書かれている内容も大変素晴らしく、当時、中国に伝えられ、中国の多数の僧侶からも尊敬を集めました。
仏教は中国から日本に伝えられたので、日本の仏教の本が中国に伝えられるのは、大変珍しく、『往生要集』がいかに素晴らしい本か、おわかりになると思います。
源信僧都の生い立ち
幼名(ようみょう)は千菊丸(せんぎくまる)
生まれは大和の国(奈良県)、早くに父親と死別し、母の手一つで育てられました。
千菊丸が、ある時、川べりで遊んでいると、一人の僧が、川の水で弁当の入れものを洗っているを見ました。
千菊丸は
「お坊さん、その水は汚いよ。あっち側に、もっときれいな水があるよ」
と声をかけます。
前日からの大雨で、水が濁っていたのです。
幼い子供に自分の行動を指摘され、少々ムッとした僧は、煙にまこうと
「幼いそなたにはわからんじゃろうが、仏教では『浄穢不二(じょうえふに)』といって、この世に、浄(きれいなもの)も、穢(きたないもの)もないと教えられているのだよ」
と言いました。
それを聞いた千菊丸、即座に
「『浄穢不二(じょうえふに)』なら、なぜ、洗うの?」
と問い返し、そのまま川べりで無邪気に遊び続けました。
煙にまこうと思ったのに、逆に鋭く指摘され、僧は、二の句が告げませんでした。
こんな幼な子に、いいように言い負かされたままでは、とても帰れません。
しばらく千菊丸の様子を見ていると、千菊丸は石積みを始めました。
僧は、チャンスと思い、千菊丸に声をかけました。
「十まで数えられるかい」
「そんなの簡単だよ。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……、九つ、十」
僧はニンマリして、
「おや、最後、おかしな数え方をしたね。一つ、二つと、どれにも『つ』をつけているのに、どうして最後の十だけは、『十つ』と『つ』をつけないのかな」
と聞き返しました。
これも即座に、千菊丸
「それは無理だよ、お坊さん。五つの時に『いつつ』と言って、『つ』を二つ使ったから、十の時には『つ』が足りなくなったんだよ」
僧はビックリしました。
1度ならず2度までも、鮮やかに切り返されたのです。
「こんな秀れた子供が、この田舎にいたのか。出家したら、必ずや立派な僧になるだろう」
と思い、母親のところへ連れていってもらいました。
事の経緯を話し、
「お子さんは、大変優れています。比叡山に出家させて、仏道を求めさせたら、いかがでしょうか」と勧めました。
母親は、まだ幼い子供を手離したくないのは、やまやまですが、千菊丸のことを思い、
「亡き夫も出家させたいと言っておりましたので、どうかよろしくお願い致します」と押し出したのです。
母は、千菊丸に、心を鬼にして
「立派な僧になるまでは、二度と帰ってきてはなりませんよ」
と見送りました。
叡山に源信あり
千菊丸は、名を「源信」と改め、比叡山に入ってからは、母との誓いを守り、熱心に仏道修行に励みました。
やがて「叡山に源信あり」と知られるようになったのです。
ちょうどその頃、時の天皇、村上天皇より、比叡山に「経典の講釈を聞きたい」を依頼がありました。
天皇の前での講釈、いい加減な者では比叡山の名を汚す、誰がよいものかと比叡山で検討した結果、源信に白羽の矢が立ったのです。
この時、源信は15歳でした。
源信は、朝廷へ赴き、村上天皇はじめ大臣家来の前で説法しました。
立て板に水を流すとはこのことかと聞く者みな、源信の鮮やかな説法に驚きました。
村上天皇は、年が若いのに堂々たる講釈に感動し、褒美として金品珍宝を与え、僧としての官職「僧都(そうず)」を授けました。
母からの手紙
晴れの舞台で大役を果たした源信の喜びは、いかほどか。
「お母様に伝えたら、どんなに喜んでくださることだろう」と思い、早速、手紙に書き、天皇から贈られた品々と共に、母のもとへ送ったのです。
ところが、間もなく、母から、すべて送り返されてきました。
そして、自分の手紙の代わりに、次のような手紙が添えられていたのです。
私は、片時も、おまえのことを忘れたことはありません。
どんなに会いたくても、やがて尊い僧になってくれることを楽しみにして、耐えてきたのです。
それなのに、権力者に褒められたくらいで舞い上がり、地位や財宝を得て喜んでいるとは情けないことです。
名誉や利益のために説法するような、ニセ坊主、世渡り上手な僧となり果てたことの口惜しさよ。
後生の一大事を解決するまでは、たとえ石の上に寝て、木の根をかじってでも、仏道を求め抜く覚悟で、山へ入ったのではないのですか。
夢のような儚い世にあって、迷っている人間から褒められて何になりましょう。後生の一大事を解決して、仏さまに褒められる人にならねばなりません。
そして、すべての人に、後生の一大事の解決の道を伝える、尊い僧になってもらいたいのです。それが母の願いです。
後の世を 渡す橋とぞ 思いしに 世渡る僧と なるぞ悲しき
源信は、泣きました。間違っていた、間違っていた、私は間違っていたと。
返ってきた金品等は焼却し、僧都の官職も朝廷に返上しました。
その後、ひたすら、後生の一大事の解決を求めて、仏道修行に励み、阿弥陀仏の本願によって、後生の一大事の解決を果たしたのです。
※僧都の官職は返上しましたが、源信の尊称として、源信僧都と言われています。
真の親孝行
後生の一大事を解決した源信は、「今度こそ、お母様に喜んでいただける」と、故郷の大和国へ向かいました。
ところが、途中、自分へ手紙を届けようとして急いでいる男に出会います。
何か胸騒ぎがした源信、封を開いてみると、姉からの手紙でした。
お母様は、もう70を超えられ、体が弱くなられました。ここ最近、ますます衰弱され、明日をも知れぬご容態。源信が恋しい、源信に会いたい、と繰り返し言っておられます。どうか早く帰ってきてください。
驚いた源信は、我が家へ急ぎました。
「お母様、ただいま帰りました、源信です」
「よく帰ってきてくれたのう。今生では、もう会えないかと思っていた……」
とつぶやく母の顔に、少し生気がよみがえってきました。
源信はすでに40歳を超えていました。
幼い頃に出家して以来、一度も顔を見せていませんでしたが、母は、わが子が立派な僧になることを念じ続けていたのです。
今こそ母の恩に報いなければならぬ。
源信は、必死に、阿弥陀仏の本願を伝えるのでした。
息子の説法を聴聞して、母も、阿弥陀仏に救われたと伝えられています。
「私の子供として生まれてきて、ありがとう」
それを縁に書かれたのが『往生要集』です。
源信僧都と親鸞聖人の関係
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は『正信偈(しょうしんげ)』に、このように書かれています。
源信広開一代教 (げんしんこうかいいちだいきょう)
(書き下し)源信は広く一代教(いちだいきょう)を開く
一代教とは仏教のことです。
源信僧都は、広く、多くの人に、仏教を伝えられたと、親鸞聖人は、褒めたたえられています。
源信僧都の活躍がなければ、法然上人(ほうねんしょうにん)、親鸞聖人(しんらんしょうにん)に浄土仏教が伝えられることはなく、日本に浄土仏教が花開くことはなかったでしょう。
日本仏教史上、忘れてはならない方の一人が源信僧都なのです。
親鸞聖人はどんな方なのでしょうか?
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