親鸞聖人と肉親の無常に導かれた門弟たち
「無常を観ずるは菩提心の一なり」といわれるように、親や子の死が縁となって、親鸞聖人のお弟子になった人たちも多いです。
一人息子を亡くした鳥喰(とりばみ)の唯円、二人の愛児を失った源海房、父の死が縁となった念信房の、仏法との出遇いを見てみましょう。
愛児を失った鳥喰(とりばみ)の唯円
武蔵国猶山の城主・橋本綱宗は、16万5千石の大名で、家は栄え、愛する妻子とともに幸せな家庭を築いていました。
綱宗の、何よりの楽しみは、一人息子・清千代丸の成長でした。自分の生きがいと、将来の望みのすべてをわが子にかけていました。
ところが、建保3年2月5日、清千代丸が病に襲われ、わずか8歳にしてこの世を去ったのです。突然の出来事でした。
綱宗は、あどけない子供の笑顔を、いつまでも忘れることができません。
「この世に、当てになるものは何一つない。8歳の子供でさえ、無常の風に誘われるのだ。オレはよく43歳まで生き延びてきたものだ。今死んだら、どこへ行くのか……」
激しい無常を感じた綱宗は、城を弟に譲り、修行者となりました。善知識(ぜんぢしき・仏教の先生)を求めて諸国遍歴の旅に出たのです。
同年3月1日、常陸国の那珂郡烏喰村を通った時のことです。
とある空き家で一夜を過ごした綱宗は、不思議な夢を見ました。仏さまが現れ、
「是より西に当り稲田といえる処に、名僧知識下られて仏法弘通(ぐづう)盛なる程に、明日は急ぎ参詣致すべし」
と告げられたといいます。
翌日、綱宗は、夢に従って稲田へ向かいました。するとどうでしょう。門前、市をなし、多くの人たちが、親鸞聖人の説法を聴聞している最中でした。綱宗も群衆に交じって、聞法に身を沈めたのです。
綱宗の心に、親鸞聖人のお言葉はしみ入るように響いてきます。後生に一大事あることと、その解決は、阿弥陀仏の本願以外には絶対ないと知らされ、その日のうちに、親鸞聖人のお弟子となり、唯円房の名を賜っています。二十四輩の24番です。(親鸞聖人43歳)
(綱宗は『歎異抄』の作者ではないかといわれる「河和田の唯円」とは別人です。区別して、綱宗を「鳥喰の唯円」といわれます)
恋に破れた鬼女伝説
JR水戸駅から北へ20キロ。水郡線・谷河原駅の近くに、鳥喰の唯円が開いた西光寺があります。田園に囲まれた静かな所です。
本堂へ入ると、仏壇の横に、動物の角らしき物が、丁重に置いてあります。大きさは、大人の親指ほど。相当年数がたっているようで、小さな虫食いの穴がいっぱいあります。
「なぜ、こんな所に角が……」と寺で尋ねると、そこには、悲しい恋の伝説が秘められていたのでした。
昔、「おため」という18歳の美しい娘がいました。貧しい農家に生まれましたが、篠田民部という豪族の家に雇われ、働いていたのです。
その家には六郎という屈強の若者がいました。六郎は、毎日まめまめしく働くおための姿を見て、恋心を抱くようになりました。おためも、若くてたくましい六郎に思いを寄せていました。いつしか二人の間には身分の違いを超えてひそかな愛が育っていったのです。しかし、楽しい恋の日々は長くは続きませんでした。
六郎は、親の説得に負けてしまい、近所に住む富豪の娘と結婚し、おためは、民部の家から追い出されてしまったのです。
引き裂かれた、おための恋慕の情はますます燃え盛り、いつしか、激しい憎悪の炎へと転じていきました。
「どうせ一緒になれないのなら、呪い殺してやる」
藁人形に釘を打ち、毎夜毎夜、恐ろしい形相で祈るのであった。
ある夜、彼女の様子を垣間見た村人が、
「おための頭に角が生え、鬼になったぞ!」
と驚いて告げたといいます。
村人は、何とか元の優しい娘に戻すことはできないかと、親鸞聖人に救いを求めました。
哀れに思われた親鸞聖人は、早速、おために会いに行かれました。狂乱状態の彼女を、どう導かれたかは伝えられていませんが、何日間もご説法なされました。
冷静さを取り戻したおためは、命を懸けた恋さえ続かない現実と、自分の思いどおりにならないと、恋する相手をも殺してしまう恐ろしい自己の姿を知らされ、戦慄せざるをえませんでした。
しかし、「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」の阿弥陀仏の本願を知らされ、熱心な仏法者に生まれ変わりました。
恐ろしい角は、おためだけが持っているのではありません。私たちの心の中には、常に、うらみ、ねたみ、そねみ、怒りの角が隠れていないでしょうか。
父の急死に驚いた念信房
念信房が開いた照願寺に、親鸞聖人は、六度も、足を運ばれています。稲田の草庵からではかなりの距離があります。仏法を聞き求める人が一人でもあれば、どんな山奥へでもご布教に歩かれるお姿がしのばれます。
安貞2年の春、聖人(56歳)は、はるばる念信房の草庵を訪ねられ、ご説法なされました。ちょうど、桜のつぼみが膨らみ始めるころでしたが、親鸞聖人がお越しになると、一夜にして満開となったといいます。
これを見た人々は、
「浄土真宗が末代まで栄えるあかしに違いない」
と喜んだという。
稲田へ帰られる親鸞聖人は、この桜の花を何度も振り返って眺められたことから、「見返りの桜」と呼ばれています。
念信房は、この地にあった高沢城の城主、高沢氏信でした。智勇兼備の武人といわれていましたが、
「いつかは散る命、死んだらどうなるのか」
と深く悩んでいました。そんな時、父親が突然亡くなったのです。父は、臨終間際に、
「稲田の親鸞聖人を訪ねよ」
と言い残しました。
「今度は自分の番だ」
と強く感じた氏信は、遺言に従って稲田へはせ参じたのです。
親鸞聖人は、後生の一大事をズバリ説き切られます。
真実に衝撃を受けた氏信は、城主の位をなげうって、聖人のお弟子となったのです。31歳の決断でした。(二十四輩の17番目)
二人の子供を同時に亡くした源海房
武蔵国の領主・安藤隆光には、7歳の月寿と5歳の花寿という二人の男の子がありました。寵愛限りなかったのですが、ある年、ふとした病で、二人の子供を同じ日に亡くしてしまったのです。
一度に二人の愛児を失った隆光の嘆きは、他人には想像できません。
涙尽き、ともに死のうとまで思っていたある夜、夢の中に、尊い僧が現れ、次のように告げました。
「汝、未来永劫、悪道に堕ちるのは必定である。今、観音、勢至菩薩が、かりに、そなたの愛児と生まれて、世の無常を目の当たりに示してくだされた。これひとえに汝ら夫婦を菩提の道に入れしめんがためである。今、幸いに、末代不思議の善知識あり。親鸞聖人と名づく。汝、速やかに行きて、仏法を聴聞せよ」
隆光は、大いに喜び、急ぎ、親鸞聖人の元へはせ参じ、聞法に励みました。
この時、隆光34歳、親鸞聖人のお弟子となり、源海房と生まれ変わったのです。
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