どんな人でも本当の幸福になる道を説かれたお釈迦さまの教えとは?
「どんな人でも本当の幸福になる道」一つ説かれたお釈迦さまの教えは一言でいえば「法鏡である」と以下の記事で学びました。
「法鏡」とは本当の私を映し出す鏡のこと。
仏法を聞き「法鏡」に映し出された真実の自己と対面した時、誰もが真実の幸福に救われるのです。
では真実の自己とはどんなものでしょうか。
それは「煩悩具足の凡夫」であると親鸞聖人は仰っています。
「凡夫」とは人間のこと。
「すべての人は煩悩具足である」と仏教では教えられるのです。
「具足」とはそれでできているということ。
氷は水でできているから水を取ってしまえばゼロになる。
「すべての人間は煩悩具足である」とは
”すべての人は煩悩に目鼻つけて歩かせたようなもの”
“煩悩の塊である”とお釈迦さまは教導されているのです。
すべての人は煩悩の塊!?
「煩悩」とは私たちを煩わせ悩ませるもので仏教では108あると教えられます。
大晦日に108回除夜の鐘をつくのはここに由来します。
「ああ今年は煩悩に煩わされ悩まされ大変な1年だったナァ」
「来年こそそんな苦しみが少しでもなくなってほしい」と願いを込めて鐘をゴーンとつくのでしょう。
ところが親鸞聖人は「煩悩は死ぬまで減りもしない、ましてやなくなるものではないよ」と仰っています。
108ある「煩悩」の中で特に恐ろしいものを「三毒の煩悩」といわれます。「三毒の煩悩」とは次の3つです。
〇貪欲(欲)
〇瞋恚(怒り)
〇愚痴(うらみ・ねたみ・そねみ)
際限のない欲の心
最初の「貪欲」とは底知れない欲の心。
お釈迦さまはこれを5つに分けて「五欲」と教えられています。
〇食欲……食べたい飲みたいの欲望
〇財力……お金や物が欲しい欲望
〇色欲……男女の欲
〇名誉欲……褒められたい認められたい欲望
〇睡眠欲……眠たいラクがしたい欲望
どこまでも深く果てしなく広がるから深い海の色に例えて青で表されます。
地獄の青鬼は「欲」の象徴です。
「どうして欲の心が恐ろしいと言われるのか。なければ生きていけないではないか」と思う人があるかもしれません。
確かに食欲がなければ何も食べたくないし、睡眠欲がなければ夜も眠くならないから生きていけない。
名誉欲や色欲がなくなれば誰から何を思われてもへっちゃらな無神経人間ばかりで、社会生活は成り立たないでしょう。
しかし欲の苦しみが分からないのは欲の本性が「満たされなければ渇き満たせば度を増して渇く」ものであると知らないからです。
ちょうど海水で喉の渇きが癒されたように感じるのは一瞬ですぐに渇きが倍増するようなものです。
欲の実態を示すこんな話があります。
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法螺貝は巻き貝の一種ですが、楽器として山伏などが使うには中身をきれいに取り出し加工しなければなりません。
とはいえ無理やりかき出そうとすれば胴体がちぎれてきれいな空洞にならないので自然に貝のほうから出てきてもらいたいのですが、どうするのでしょう。
答えは酒だるの上に法螺貝をつるすのです。
最初はかたくなに閉じ籠っていた法螺貝もやがて酒の甘いにおいに誘われ少しずつ頭を出す。
注意深かった法螺貝もやがて殻からニューと胴体を現すと自身の重みで伸びすぎて戻れなくなり、ついに酒だるへポチャンと落下してしまうのです。
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「これくらいよかろう。もうちょっとあとちょっと~」と手を伸ばし、やがて取り返しのつかない事態に陥るのが底知れぬ欲の恐ろしさです。
お釈迦さまに次のようなエピソードがあります。
「そこに毒蛇がいるぞ。かみつかれぬように」
「ハイ心得ております」
お釈迦さまに従って歩いていた阿難(あなん)が答える。
その会話を聞いた男が怖いもの見たさにのぞいてみた。
なんとそこにはまばゆい金銀財宝が地中から顔を出しているではないか。
「昔誰かが埋め隠したのが大雨で洗い流されたに違いない。こんな宝を毒蛇と間違うとは釈迦もまぬけ野郎だ」
男は喜んで持ち帰った。
いっぺんに生活は華美になり国中の評判になった。
その噂は王様の耳にも入り怪しまれ、厳しい詮議を受けて白状した。
かかる大枚の財宝を横領するとは許せぬ大罪。
死刑に処するが3日間の猶予を与えると一応帰宅させた。
次第を聞いて家族は嘆き悲しんだ。
「ああ、お釈迦さまは偉い。間違いなく毒蛇だった。オレがかみ殺されるだけでなく妻子にまで毒が回り大変なことになった。家族そろって平和に暮らせるのが何よりだ。財宝がかえって身を責める道具になった」
男は心から懺悔した。
翌日呼び出しがかかった。
死刑が早まったのかと青ざめて法廷に出ると
「おまえの罪は許す」との大恩赦。
理由は
「おまえが帰る前に床下に家来を忍ばせて全てを聞いた。お釈迦さまのお言葉からおまえの懺悔。考えてみるとおまえばかりが毒蛇にかまれるのではなかった。取り上げるオレも酒色に溺れ国を破滅させるところだった。財宝はお釈迦さまに使ってもらおう」
とのことだった。
一部始終を聞かれたお釈迦さまは微笑されながら
「この世の宝は身を苦しめる道具になることが多い。早速みんなが絶対の幸福になる仏法を伝えるために使おう」
とお預かりになったという。
無謀に始まり後悔に終わる怒り
次の「瞋恚」とは怒りのこと。
欲が満たされなければ「怒り」と爆発します。
「心」の上に「奴」と書くように「怒り」は心のまな板で気に食わぬヤツをこれでもかと刻みつける。
怒ると顔が真っ赤になりますから仏教では赤鬼と表される心です。
「怒りは無謀に始まり後悔に終わる」
「怒り」の炎がグワーッと燃え上がれば理性は吹っ飛び、恐ろしい言動であっという間に築き上げた全てを焼き尽くしてしまう。
昔、上野動物公園でカバが妊娠したので飼育係が育てやすいようにと計らったのかオリを移動させようとし
ところが嫌がったカバは激しく抵抗しお腹の子供を死産したという。
怒りはカッと身を焼きさっと頭に血が上るから一般にもいつも怒っている人は短命といわれます。
道理に暗いねたみそねみの心
いくら腹が立ってもほとんどの状況では怒りをストレートにぶつけることはできませんから、ねたみそねみの醜い「愚痴」となります。
「愚」もおろか
「痴」も知恵が病だれで入院中ですから「愚痴」とはバカのこと。
お釈迦さまは大宇宙の真理である「自業自得」の因果の道理が分からない心を”バカ”と言われたのです。
道理に暗い「愚痴」は黒で表されます。
他人の恵まれた結果は本人の努力や苦労によるもの。
因果の道理を忘れ、相手を呪うだけではやがて身の破滅を招く。
こんな愚かなことはありませんよと、お釈迦さまは戒められているのです。
「嫉妬」は「ねたみそねみ」。
ともに「女へん」ですが、男は特にプライドが高いから一層たちが悪いという人もある。
醜いジェラシーに身を焦がしている自分を誰にも気づかれたくない。
ましてや昨日昇格した同期のアイツにだけは絶対知られたくない。
だから笑顔で”やったな。おめでとう”と肩をたたいて酒を酌み交わしつつ、腹の中では”コンチクショー”と虎視眈々と権謀術数を謀る。
仲の良い2人の間を二枚舌で切り裂きながら成り行きをニヤニヤ見守ってほくそえむ。
誰しもあきれるこんな自分を法鏡はありのままに映し出すのです。
親鸞聖人の懺悔と歓喜
「仏の眼からごらんになると私は醜い煩悩の塊だ」
弥陀に救い摂られ、自己を信知なさった親鸞聖人は死ぬまでやまない悪性をこう懺悔なさっています。
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蠍のごとくなり
怒りやねたみそねみを蛇や蠍に例えて、親鸞の心は蛇や蠍のようにゾーッとするほど恐ろしく醜いとの述懐です。
煩悩具足で死ぬまで悪を造り続ける。
そんな私の後生は「悪因悪果 自因自果」の因果の道理に狂いなく、長く苦患に沈む。
仏教ではこれ以上の一大事はないから後生の一大事と言われ、その解決を急げと説かれるのです。
『歎異抄』にはこうも告白されています。
いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし
「いずれの行も及び難き身なれば」とは、一つの善もできない親鸞だとの懺悔です。
「地獄」と聞けばこの世の受験地獄や借金地獄を思い出す。
もちろんこれも大変ですが、ここで親鸞聖人の言われる地獄とは後生無限の苦悩を受けることですからとても比較になりません。
幼くして両親を亡くされ、次に死ぬのは自分の番だと後生に驚かれた親鸞聖人が、比叡山で天台宗の僧侶になられたのは9歳のこと。
そこで20年間食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まれず、青春の全てをささげて身も心も修行に打ち込まれたのは、後生の一大事を解決したい一心でした。
しかしどうにも解決ができず、泣く泣く山を下りられ、吉水の法然上人から、真実の仏教である阿弥陀如来の本願を聞かれる。
そして29歳弥陀の本願力によって絶対の幸福に救い摂られた一念に「地獄は一定すみかの親鸞」とハッキリ知らされたのです。
「一定」とは間違いなくハッキリしたこと。
「すみか」とは家のこと。
家を離れて生きることはできません。
「地獄は一定すみか」とは、この親鸞の行き場は地獄以外になかったとハッキリ知らされたとの格言です。
同時にこんな親鸞一人を目当てに助けてくださった、弥陀の本願を喜ばずにおれないと『歎異抄』にまたこう歓喜なさっています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人が為なりけり
されば若干の業をもちける身にてありけるを
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ
「弥陀の五劫思惟の願」とは弥陀が五劫の長きにわたって考え抜かれて、十方衆生(すべての人)を助けんと奮い立ってくだされたお約束のこと。
「五劫」は、はるか想像も及ばぬ長期間です。
ここで「すべての人を助ける」弥陀の本願を、なぜ聖人は「親鸞一人がため」と仰ったのか。
「祭りには皆は言えど気は娘」
“今度うちの近所で夏祭りがあります。ぜひ皆さんでいらしてくださいね”と実家の母が娘の嫁ぎ先の一家を誘うのは、本当に嫁ぎ先の一家に夏祭りを楽しんでもらいたいからではなく、ひとえに娘だけ里帰りしてほしいという「ただ娘一人かわいい」の親心から。
弥陀はすべての人が相手と誓われてはいるが、罪悪深重の親鸞一人がかわいい。
何としてもおまえを助けずばおかぬと五劫の長きに悩まれ苦しんでくだされたのか。
「若干(そくばく)の業」とは無限の悪業のこと。
「本師弥陀の五劫思惟のご苦労はひとえに地獄一定の親鸞ゆえ」と悲観なされ、そのまま極楽一定に救い摂ってくだされた大恩を喜ばずにおれないと、不思議な本願力に感佩なさっています。
あまりにも深きご恩に親鸞聖人は90歳で浄土に還帰なされるまで、この弥陀の本願一つ叫び続かれていかれたのでありました。
このように弥陀に救い摂られた時「真実の自己」と「弥陀の本願まこと」が同時にハッキリ知らされます。
自己の真実を知らねば本当の幸福にはもうなれませんから、法鏡に映し出された自己を徹見し、絶対の幸福に摂取されるまで真剣に仏法を聞かせていただきましょう。
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