「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の『歎異抄』の謎を解く
なぜ「善人」より「悪人」なのか 苦しみ深き人が幸せになれるのか。
「仏陀の智慧の教えこそ、今のケニアに必要な教えだ。仏教を学び、ぜひケニアの人たちに伝えたい」
アフリカ・ケニアの青年がこう感動を述べ、真摯に仏教を学んでいます。
彼はケニアの大学で初めて仏教に触れ、特に親鸞聖人の言葉が書かれた『歎異抄』の英訳に親しんでいます。
感銘を受けた内容を同じ国の友人たちに読ませると、その1人が驚いて、
「親鸞という人が、なぜこんなすごいことを言われるような境地に立ったのか、ぜひ知りたい」
と語ったといいます。
彼がびっくりしたのは、日本の思想史上、最も有名な『歎異抄』第3章の冒頭の一文です。
日本でも、高校の歴史教科書で取り上げられ、テレビの人気ドラマ『相棒』(テレビ朝日系列)では、平成30年1月に放映された300回記念のタイトルに「いわんや悪人をや」とありました。
時や所を超え、多くの人々を引き付けるこのお言葉について、説明したいと思います。
『歎異抄』とは
時代を超えた名著として、今日も多くの人を魅了する『歎異抄』は、親鸞聖人の教えを知る格好の入門書とされています。
しかしこの書は、聖人のご執筆ではなく、高弟・唯円が書き残したものだといわれています。
全18章から成り、1章から10章は親鸞聖人の直のお言葉をそのまま記し、11章から18章は前の10章を物差しとして、当時の誤った教えを正されています。
ここから、“異説(誤り)を嘆き、正すために泣く泣く筆を染めた書”『歎異抄』と名づけられました。
最近、この歎異抄がアニメ映画になりました。映画のサイトはこちらへ。
歎異抄をひらく[映画公式サイト]
歎異抄の逆説的表現の多い屈指の名文に引き付けられる人は数多く、大正時代の作家・倉田百三は、
「実に名文だ。国宝と云っていい」
と絶賛し、歴史小説家の司馬遼太郎もこう語っています。
「非常にわかりやすい文章で、読んでみると真実のにおいがする」
このような賛辞は枚挙にいとまがありません。
「悪人」こそが助かるって どんなこと?
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄第3章)
(善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人は、なおさらだ)
「悪人でさえ浄土へ往けるのだから、善人なら、なおさらだ」と言うのならナットク、という人は多いでしょうが、親鸞聖人はここで、「悪人こそが助かるのだ」と全く逆のことを教えられています。
なぜでしょうか。
それについて解説する前に、まず「善人」「悪人」について考えさせる、こんな逸話を紹介しましょう。
内輪ゲンカの絶えないA家の隣に、平和そのもののB家があった。
A家の主人は、隣はどうして仲良くやっているのか不思議でたまらず、ある日、B家を訪ね、“一家和楽の方法があったら、どうか教えていただきたい”と懇願した。
「別にこれといった秘訣などありません。ただお宅さまは、善人さまばかりお集まりだからでしょう。私の家は悪人ばかりで、ケンカにはならないのです。ただそれだけのことです」
B家の主人のこの一言に、皮肉られたと思ったA家の主人が抗議しようとした時、B家の奥で、皿か茶碗でも割ったような大きな音がした。
「お母さん、申し訳ありませんでした。私が足元を確かめずにいましたので、大事なお茶碗を壊してしまいました。私が悪うございました」
心から詫びている、お嫁さんの声と、
「いやいや、先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、そんなところに置いた私が悪かったのです。済まんことをしました」
という姑さんの声が聞こえてきた。
「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。ケンカにならぬ理由が分かった」
A家の主人は感心して帰ったという。
仏教では、本当の幸福になるには、自己の姿を正しく知ることが大切だ、と教えられています。
進学や就職でも、自分の本当にやりたいことや適性、能力などを知らないと進路は決められません。
「世界で最大のことは、自己を知ることである」
とモンテーニュ(フランスの哲学者)が言うように、人間のあらゆる営みの中心に“自分とは何ぞや”の問いがあります。私自身を知らなければ、その私が本当の幸せになれる道理がないのです。
最も不可解な「自分」
私たちは、自分のことは自分がいちばん知っている、と思いがちですが、実は最も分からないのが自分ではないでしょうか。
隣家の障子が穴だらけで、少しも張り替える気配のないのを、“隣は何とだらしないんじゃ”ととがめている祖母に孫が言いました。
「ちょっと、おばあちゃん、どこから覗いて言っているの?」
見れば、自分の家の障子こそ破れた穴だらけで、その穴から隣を眺めていたのです。
かつては自分も同じ穴のムジナだったのに、他人の不祥事を厳しく責め立てている人は、ネット上で「おまいう(おまえが言うな)」と冷笑されます。
他の議員の不倫を断罪した議員が、自身の不倫報道で離党を余儀なくされた時には、「(人を討った)ブーメランが返ってきた」と揶揄されました。
他人のあらはよく見えても、自分の姿を知るのは至難なこと。どんなに遠くまで見える目でも、その目自体を見ることができないように、自分というものは近すぎて見えないのです。
近すぎるものを見るには鏡が必要です。その私の姿をありのままに映し出す鏡(法鏡)が仏教なのです。
「悪をするほど浄土へ往ける!?」は大まちがい
では、法鏡に映し出された人間とはどんな者なのでしょう。
それを『歎異抄』では「悪人」と説かれ、その悪人こそが浄土へ往けるのだと教えられているのです。
ところが、そう聞くと、
「悪をするほど浄土へ往けるのか」
と誤解し、好んで悪を行うようになった人たちもあります。それで親鸞聖人の教えを「悪人製造の教え」と批判する人たちまで現れました。
これは今日も多くある『歎異抄』の根深い誤りです。これを正すには、親鸞聖人の「悪人」「善人」の真意を明らかにする以外にありません。
「善人」や「悪人」と聞くと私たちは、常識や法律、倫理・道徳を基準にして判断します。
「悪人」と聞いてまず想起するのは、法律を破った犯罪者でしょう。
近所の子供を誘拐して殺害したとか、高齢者をだまして高額を奪ったなどと聞けば、文句なしに、「悪人」のレッテルが貼られます。
また、道徳、倫理的な悪人もありましょう。
平気でタバコのポイ捨てをする人、大音量で音楽を聴く近所迷惑な人、口さえ開けば他人の悪口ばかりで、周囲を悩ませる者もある。警察に捕まるほどではないけれど、「感じ悪い」「困った人」といわれる「悪人」です。
あるマルクス主義者は、「善人よりも悪人」と聞いて、
「なるほど親鸞聖人はスゴイ。資本家よりも、彼らに搾取されて苦しんでいる社会的弱者、労働者のほうが、革命によって救われると見抜かれたのか」
と感嘆したそうです。
「悪人」=「すべての人間」
しかし、親鸞聖人が『歎異抄』で「悪人」と仰るのは、そんな法律、倫理・道徳上の「悪人」や、社会的に虐げられている人だけのことではありません。
「すべての人間」のことです。
つまり親鸞聖人の言われる「悪人」とは、人間の代名詞なのです。
なぜ親鸞聖人はすべての人間を悪人と仰ったのか。
それはどんな人間も苦しんでいるからです。
貧富の差や能力、財産、名誉、地位の有無などと関係なく、人は皆、苦しみの中で生きています。
先頃イギリスでは、ヘンリー王子の結婚、その数週間前には兄のウィリアム王子の第3子が誕生するなど、祝賀ムードに沸きました。
彼ら兄弟の母親として知られるのが、ダイアナ元皇太子妃(故人)です。
財や地位、美貌を併せ持ち、世界を魅了した彼女は、しかし、悲劇のヒロインとして生涯を閉じました。
幼くして両親が離婚し、拒食症と過食症に悩まされるほど、心に深い傷を負ったダイアナは、知人のパーティーで知り合ったチャールズ皇太子と20歳で「世紀の結婚」を遂げました。
自分こそ世界一幸運な女性と思ったのもつかの間、結婚を境に、彼女は再び、苦悩の日々を送ることになりました。
皇太子に、カミラ夫人という愛人がいたからです。
「最初から3人の結婚生活だった。ちょっと人数が多すぎました」
と後年、語ったように、チャールズの愛情は当初からカミラに向いていました。
ダイアナは再び過食症に襲われました。
ウィリアム王子を身籠もっていた時には、階段から身を投げて自殺を図り、その後も4回の自殺未遂を繰り返したといわれます。
やがて夫妻は別々に公務を遂行するようになり、一緒にいても、視線すら合わせない。
1996年、ようやく離婚に至ったダイアナは心機一転、慈善事業に没頭しますが、翌年、エジプト人の富豪、ドディ・アルファイド氏との恋愛が発覚すると、2人を狙うパパラッチを引き離そうと、猛スピードでパリの街を車で走行中、運転手がハンドル操作を誤り、支柱に激突して横転。離婚1年後、36歳の若さで散ったのでした。
子供の頃から「城のような家に住みたい」と夢を抱いて仕事に奮闘し、ついにプール付きの豪邸を建てた人が、しみじみ語りました。
「設計図を決める作業は至福でしたが、いざ入居すると、3日目にはもうイヤになりました。何より掃除が大変で、維持管理費もバカにならない。決め手は東日本大震災の時、広いリビングで不気味に揺れる巨大なシャンデリアの下、私にはそもそもこんな豪邸は必要なかったと気づいたのです」
日本では、年収800万円までは幸福度が上がっていきますが、それ以上になると、幸福度は上がらなくなるという結果が報告されています。
衣食住がある程度満たされると、後はどんなに働いても幸福感は増さず、かえって忙しさが増して苦しみになることもあるのです。
私たちは望むものが手に入れば幸せになれる、と思っていますが、根本的には、有っても無くても苦しんでいることに変わりがありません。
お釈迦さまはこれを
「有無同然(有無同じく然り)」
と仰っています。
人生の本質は苦しみなのですが、今はさほど深刻に苦しんでいない人もありましょう。
そんな人は、かりそめの幸せに溺れ、阿弥陀仏に生死の一大事を打ちまかせる心がないのです。
親鸞聖人が冒頭のお言葉で「善人」と言われているのは、そんな人のことです。
しかしそういう人も、仏教を聞いて自己が知らされれば、“自分こそ苦悩の人、悪人であった”と気づくことでしょう。
仏教を聞くとは人間の真実の相を聞くこと
「すべての人が悪人」とは、仏さまの眼に映る人間の真実の相を教えられたものです。
仏教を聞く、とはその人間の真実の相を聞くことであり、
「苦悩に沈むすべての人を、必ず浄土に生まれる身(絶対の幸福)に救う」
と誓われた本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞く、ということです。それが本当の幸福になる道であると教えられています。
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