親鸞聖人の晩年
関東からの道すがら、多くの人を勧化されながら、親鸞聖人は、懐かしき京都へお帰りになりました。無実の罪で越後へ流刑に遭われてより、約25年ぶりのことでした。90歳で、浄土へ還帰されるまでの30年間、親鸞聖人は、どのように過ごされたのでしょうか。
ご帰洛後のお住まい
京都に着かれた親鸞聖人は、何回も住まいを変えておられます。
「聖人故郷に帰りて往事をおもうに、年々歳々夢のごとし幻のごとし。長安洛陽の棲も跡をとどむるに懶(ものぐさ)しとて、扶風馮翊(ふふうふよく)ところどころに移住したまいき」(御伝鈔)
「或時は岡崎、または二条冷泉富小路にましまし、或時は、吉水、一条、柳原、三条坊門、富小路等所々に移て住たまう」(正統伝)
このうち、平太郎と面会された場所が、上京区の一条坊勝福寺です。門前には「親鸞聖人御草庵平太郎御化導之地」と石柱が立っています。
平太郎だけでなく、親鸞聖人の教えを求め、命懸けで関東から訪ねてくるお弟子が多数ありました。狭いながらも、教えの花咲くお住まいであったに違いありません。
道珍の霊夢
西本願寺正面の細い通りヘ入ると、念珠店が立ち並んでいます。そのまま東へ進むと、突き当たりが紫雲殿金宝寺です。
金宝寺はもと、天台宗の寺でした。ところが、57代目の住職・道珍が親鸞聖人のお弟子になり、浄土真宗に改宗したのです。その経緯を、当寺の『紫雲殿由縁起』は次のように記しています。
道珍は、高僧が来訪される夢を3回も見た。そこへ間もなく、親鸞聖人が訪れられたのである。紛れもなく夢でお会いした高僧なので、道珍は大変驚き、心から敬服した。ご説法を聴聞して、たちまちお弟子となったのである。時に、聖人67歳、道珍33歳であった。
道珍は、親鸞聖人のために新しく一室を作り、安聖閣と名づけました。道珍がしきりに滞在を願うので、約5年間、親鸞聖人は金宝寺にお住まいになったという。
ここにも、関東の門弟が多数来訪した記録があります。片道1カ月以上かけて、聞法にはせ参じる苦労はいかばかりであったか。後生の一大事を知らされたからでしょう。
また、『紫雲殿由縁起』には、道珍が親鸞聖人に襟巻きを進上したところ、大変喜ばれた、と記されています。
報恩講の大根焚き
京名物の一つ、了徳寺の大根焚きは、親鸞聖人報恩講の行事です。
了徳寺は京都市の西、右京区鳴滝町にあります。山門をくぐると、すぐに大きなかまどが目に飛び込んできます。報恩講には、早朝から大鍋で3500本の大根が煮込まれ、参詣者にふるまわれるという。
どんないわれがあるのか。略縁起には、次のように記されています。
親鸞聖人80歳の11月、ご布教の途中、鳴滝村を通られました。寒風吹きすさぶ中で働いている6人の農民を見られ、
「一生涯、自然と闘い、体を酷使して働くのは何のためか。弥陀の救いにあえなければ、あまりにも哀れではないか……」
と近寄られ、阿弥陀仏の本願を説かれました。
初めて聞く真実の仏法に大変感激した農民たちは、親鸞聖人にお礼をしたいと思ったが、貧しさゆえ、何も持ち合わせていない。そこで、自分たちの畑で取れた大根を塩炊きにして召し上がっていただいたところ、親鸞聖人は大変お喜びになったという。
親鸞聖人は、阿弥陀仏一仏を信じていきなさいと、なべの炭を集められ、ススキの穂で御名号を書き与えられました。
以来、親鸞聖人をしのんで大根を炊き、聞法の勝縁とする行事が750年以上も続いています。
著作に励まれる親鸞聖人
晩年の親鸞聖人は著作に専念しておられます。
52歳ごろに書かれた『教行信証』六巻は、お亡くなりになられるまで、何回も推敲・加筆なされています。いわば、生涯かけて著された大著です。
このほか、主なご著書とお書きになられた年代を挙げてみましょう。
76歳
浄土和讃(じょうどわさん)
高僧和讃(こうそうわさん)78歳
唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)83歳
浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)
愚禿鈔(ぐとくしょう)84歳
往相廻向還相廻向文類(おうそうえこうげんそうえこうもんるい)
入出二門偈頌(にゅうしゅつにもんげじゅ)85歳
浄土三経往生文類(じょうどさんぎょうおうじょうもんるい)
一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)
正像末和讃(しょうぞうまつわさん)86歳
尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)88歳
弥陀如来名号徳(みだにょらいみょうごうとく)
このほかにも、親鸞聖人が書写・編集されたり、加点されたお聖教(仏教の本)は、全部で20冊以上知られています。しかも、そのほとんどが76歳以降に書かれています。
ご高齢になられるほど、執筆に力を込められていることが分かります。「体の自由が利かなくなった分、筆を執って真実叫ぶぞ」と、親鸞聖人の並々ならぬ気迫が伝わってくるようです。
親鸞聖人のご往生
親鸞聖人は、弘長2年11月下旬より病床に就かれました。あまり世間事を口にされず、ただ阿弥陀仏の大恩ばかり述べられ、念仏のお声が絶えなかったといいます。
11月28日、午の刻(正午)、親鸞聖人は90九十年のご生涯を終えられ、弥陀の浄土に還帰なされました。
臨終には、弟子は顕智と専信、肉親は、第五子の益方さまと第七子の覚信尼さまのみが、わずかに臨んだといいます。一切の妥協を排し、独りわが道を行かれた親鸞聖人にふさわしい、ご臨終でありました。
親鸞聖人のご遺言
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。
我なくも法は尽きまじ和歌の浦
あおくさ人のあらんかぎりは
弘長二歳十一月愚禿親鸞
満九十歳
29歳で阿弥陀仏の本願に救い摂られてより、90歳でお亡くなりになるまでの、親鸞聖人のご生涯は、まさに波乱万丈でした。
真実の仏法を明らかにされんがための肉食妻帯の断行は、破戒堕落の罵声を呼び、一向専念無量寿仏の高調は、権力者の弾圧を招きました。35歳の越後流刑は、その激しさを如実に物語っています。
流罪の地でも、無為に時を過ごされる親鸞聖人ではありませんでした。
「辺鄙(へんぴ)の群類を化せん」と、命懸けの布教を敢行されたことは、種々の伝承に明らかです。
関東の布教には、親鸞聖人をねたんだ弁円が、剣を振りかざして迫ってきました。邪険な日野左衛門に一夜の宿も断られ、凍てつく雪の中で休まれたこともありました。
今に残る伝承は、親鸞聖人のご苦労の、ほんの一端を表すにすぎません。まさに、報い切れない御恩に感じ、「身を粉にしても……」と、布教に命を懸けられたご一生でありました。
その尽きぬ思いが、「御臨末の御書」に表されています。
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ」
「和歌の浦曲の片男浪」とは、現在の和歌山県和歌浦、片男波海岸です。万葉の昔から美しい海の代名詞になっています。
親鸞聖人は、「命が尽きた私は、一度は浄土へ還るけれども、海の波のように、すぐに戻ってくるであろう。すべての人が弥陀の本願に救われ切るまでジッとしてはおれないのだ」とおっしゃっています。
「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
「一人の人は二人と思いなさい。二人の人は三人と思いなさい。目に見えなくても、私は常にあなたのそばにいますよ。悲しい時はともに悲しみ、うれしい時はともに喜びましょう。阿弥陀仏の本願に救われ、人生の目的を達成するまで、くじけずに求め抜きなさいよ」と、すべての人に呼びかけておられるのです。
真実のカケラもない私たちが、どうして仏法を聞こうという心が起きたのでしょうか。そこには、目に見えない親鸞聖人が常に、手を引いたり押したりしてくださっているからではないでしょうか。
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