志賀直哉の「盲亀浮木」|お経に説かれているのはどんな話?
NHKで2020年3月28日にドラマ『盲亀浮木』が放送されました。
これは志賀直哉の小説『盲亀浮木』が原作です。
志賀直哉が80歳の時の作品で、志賀直哉の身の回りに実際に起こった出来事から作られたノンフィクション小説です。
『盲亀浮木』は元々は「譬喩経」というお経にあったたとえ話です。
どのような話なのでしょうか。
たとえ話「盲亀浮木」
お釈迦さまの説かれた「盲亀浮木のたとえ」とはこのような話です。
ある時、お釈迦さまが阿難(あなん)というお弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難が答えると、お釈迦さまは盲亀浮木の譬えをお話しなさっています。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、百年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」。
お釈迦さまが念を押される。
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられています。
お釈迦さまの説かれた「盲亀浮木のたとえ」は、私たちが人間に生まれてくることが、いかに有難いことかを知らせるために説かれたものです。
志賀直哉がこの『盲亀浮木』の話を知ったのは叔父さんが禅をやっており、その叔父さんから聞いたからです。
小説『盲亀浮木』はどんな話?
志賀直哉の小説『盲亀浮木』は「軽石」「モラエス」「クマ」の三話でできています。
ドラマになったのはその中の「クマ」という話で、このようなあらすじです。
志賀直哉が奈良から東京に引っ越してしばらくのときのことです。
一緒に連れてきた飼い犬の「クマ」がいなくなってしまい、家族と一緒に探したのですが見つからず、心配していました。
しばらくたったある日、子供を連れて神田に出かけることになったのですが、出かけるときにトラブルがあって出るのが遅くなってしまいました。
高田馬場からバスに乗り外を見ていると、江戸川橋付近でクマらしき犬が走っているのを見かけました。
すぐにバスを飛び降り、クマがいたところまで走ってクマを捕まえることができた、という話です。
あとでクマと再会した確率を計算してみました。
クマがいなくなってから1週間後に見つかったということで、1週間を秒にすると604800秒。この時間をバスに乗っていたときにふと外を見て、クマを見つけるのにかかった時間3秒で割ると206600分の1の確率で起こったチャンスだったと言える。
このことについて志賀直哉は
『妙な例かも知れないが、一円玉を二十万六千六百個置いて、それから、その一つを選りだせといわれても、それは全く不可能だろう。ところがそういう事が実際に起こったのだ。』
『仮りに偶然としても只偶然だけではなく、それに何かの力の加わったものである事は確かだと思うのだ。然し、私の耄碌した頭では、その何かとは一体なんだろうと思うだけで、それ以上はもう考えられない』
と言っています。
この偶然起こった出来事に対して、「滅多にない」という意味で『盲亀浮木』という作品名にしたのです。
クマを見つけることも滅多にないことですが、仏教では、私たちが人間に生まれてくることは、それ以上に滅多にない、有難いことだと教えられています。
では、どうしてそれほど人間に生まれてくることが有難いことと教えられるのか。それは、人間に生まれてきた目的があるからだと仏教では教えられています。その生まれてきた目的について、同じく譬喩経の中に説かれている譬話があります。
こちらの記事で詳しく解説しています。
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