「後生大事」って何が大事なの?|仏教から来た「後生大事」
9月30日にテレビ朝日系列で毎週平日放送中の「グッドモーニング」の中の「ことば検定」で林修先生が「後生大事」という言葉について解説していました。
(問題)後生大事、本来の意味は?
1、子孫のために財を成す
2、来世のため信仰に励む
3、臨時で寺に勤める
答えは、2の「来世のため信仰に励む」です。
「後生大事」とは「没後や来世の安楽を願って、今を大切に仏道に励むこと」のことです。
「後生大事」のそれ以外の意味は「心をこめて物事にはげむこと。非常に大切にすること。またそれを揶揄して用いる」などで、「小さい頃から買ってもらった人形を後生大事に持っている」「辛い過去を後生大事に抱えてどうするのか」のように使います。
しかし「後生大事」は元々仏教から来た言葉です。仏教ではどのような意味なのでしょうか。
後生大事とは
番組中の「後生大事」の説明では、「後生とは来世のことですから、後生大事とは来世が大事だから今生で一生懸命修行することを言います」と説明していました。
人にお願いするときに「後生だから」と頼むのは、「お願いを聞いてくれたら、来世にいいことあるよ」ということから来たそうです。
仏教には因果の道理という教えがあり、
良いことをすれば良い結果がやってくる(善因善果)
悪いことをすれば悪い結果がやってくる(悪因悪果)
自分のやったことは自分に結果がやってくる(自因自果)
と教えられます。
「後生だから」というのは「あなたが死んだ後の世界で良い世界に行くために、徳を積むと思って頼みを聞いてくれ」ということです。
後生の一大事
仏教では私たちが死んだ後、後生について教えられています。
死んだ後と聞くと、そんなことは自分と関係ないと思いますが、死なない人は誰もいませんので、すべての人に関係のあることが、死んだ後のことです。
死んだらどうなるか、無になるという人もあれば、天国へいくという人もあります。お釈迦様はどのように教えられているのでしょうか。
自業自得で、長い間、苦しみ続ける、それを地獄と教えられています。
死ねば必ず地獄に堕ちる、これを後生の一大事といいます。
死後の地獄と聞くと、おとぎ話か作り話のように思って「そんなの昔の人は信じたかもしれないけど、科学の発達した今の時代に信じる人なんかいないよ」とあざけったり、疑ったりする人もあります。
そんな人に対して、かつてある布教使が体験した話がありますので、紹介したいと思います。
ある布教使の話
十年ほど前、ある寺に招待され、説法に行った時のことである。
寺の住職から相談を受けた。
「先生、うちの寺の世話を永年してくれていた門徒総代が、新興宗教に迷ってしまった。何とかしてほしい」
そこで、その総代の家に行ってみた。いろいろ話すうち、だんだん心を開き、やがて仏教を聞かなくなった本心をこのように、打ち明けてきた。
「私はね、仏教で、地獄がある、極楽がある、というのが信じられない。あなたは本当に地獄があると思っているのかね」
「地獄は厳然としてある」と答えると、
「それなら、地獄で罪人がまないたの上で切られたり、鬼がいたり、地獄の釜があったりするのが事実だと言うんだね」
と食ってかかる。
「ならば、地獄の釜を造った鍛冶屋もいるだろう。あんた、その地獄の釜をこしらえた鍛冶屋の住所と名前知っているか」
と畳みかけてきた。
「知っている。住所・氏名だけでなく、生年月日も知っている」
総代は意外な顔をして、
「あんた面白いこと言うなア。なら、地獄の釜をこしらえた鍛冶屋の住所・氏名を聞かせてくれ。そうしたら仏教聞いてもよい」
と、話が進展した。
そこで私は、静かにこう言った。
「鍛冶屋の名前は教えるが、その前に聞いておきたいことがある。あんた夢を見たことがあるだろう、それも何か恐ろしいものに追いかけられて逃げている夢を」
「そりゃ見ることはある」
とキッパリ答えるので、
「その時あんたは何で逃げる」。
「そりゃ、この足だ」
「その足でか、本当に?」
念を押すと、「足でなきゃ、手で逃げられるか」と総代は憤慨する。
「しかし、その足は布団の中にあるのじゃないか。それで逃げるのではないだろう」
「そりゃそうだ、逃げるのは夢の中の足で逃げるのだ」
「つまり、その時のあなたには、横にしている足と夢の中の足とがあるわけだね」
うなずく総代に、
「逃げる時、振る手も、逃げる体も、あんたの夢の中の手や体だね」
と確認した。
総代はやはり、黙ってうなずいている。私はその様子を見て、
「実は、地獄というのは夢なんだ。お釈迦さまは地獄というのは夢だと説いておられる」
と諭すように言った。
「何だ、地獄というのは夢かね」
総代は拍子抜けしたように言う。そこで、
「夢かね、と言っても、それは恐ろしい夢で、果てしなく長い間、覚めることなく苦しみ続ける夢なんだ。覚めた時は、何だ夢だったのかと思うが、夢の中ではそうは思えない。忽然と現れる山も川も、実在だ。汗を流して苦しみ続ける恐ろしい夢の世界が地獄ということなのだ」。
総代は神妙な面持ちになった。
「しかも、地獄だけが夢じゃない。この人生もまた夢なのだ。あの豊臣秀吉も臨終に、“露とおち露と消えにしわが身かな、難波のことも夢のまた夢”と言っている。あんたも奥さんと結婚した時を思い出してみなさい。その奥さんも亡くなった。その間はあっという間に過ぎてしまったはずだ。過ぎてしまえばそれも夢じゃないかね」
奥さんの話になると、しみじみ、
「夢ですね。本当に」と言う。
「人生は皆、夢で、“儲かった”“銀行に貯金した”、それも夢だ。人間界は苦しみの少ない夢だが、地獄という世界は大変な恐ろしい夢が果てしなく長く続くということなのです」
このように言うと総代は、ハッと思い出したように、尋ねてきた。
「夢のことは分かったが、あの鍛冶屋の話はどうなった」
「これだけ言えば分かると思うが、地獄の釜を造った鍛冶屋は私だ」
と答えると、
「私?それはどうして?」。
「あなたはこんな歌を知りませんか。
『火の車造る大工はなけれども
己が造りて己が乗りゆく』
地獄というのは夢のように一人一人が造って一人一人が堕ちていく世界なのです」
このように話すと、総代は次第に理解し、再び仏法を聞くようになった。
後生の一大事を生むものとその解決
先の歌の中で、「火の車」とは、苦しい状態、つまり地獄を表します。
自らが造った悪い行い、悪因が生み出す世界が地獄なのです。
親鸞聖人は、この一大事を、
呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ
と、おっしゃっています。
“呼吸の頃すなわちこれ来生なり”とは、吐いた息が吸えなければ、吸った息が吐けなければ、死んで後生に入っていく、一息一息後生と触れ合っていることをいいます。
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず」
一息切れたら、永遠に戻らぬ人生になるぞと、後生の一大事を警鐘乱打しておられるのです。
仏教を説かれたお釈迦様は「すべての人は後生に一大事がある」と教えられ、その後生の一大事の解決の方法を明らかにされています。
それが阿弥陀仏の本願です。
阿弥陀仏の本願についてはこちらの記事で解説しています。
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