「南無阿弥陀仏」って何だろう?|念仏についての6つの疑問(後)
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■Q4「南無阿弥陀仏」を頂いたら、どうなるのでしょうか。
弥陀から、その「南無阿弥陀仏」の名号を頂いたのを「信心獲得」というと、蓮如上人は説示されています。
信心獲得すというは、第十八の願(阿弥陀仏の本願)を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり(御文章)
「信心獲得」したならば、どうなるのか。聖人はこう仰せです。
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり (高僧和讃)
「どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、心も言葉も絶えた幸せが、その人の身に満ち溢れるのである」
蓮如上人も、弥陀より名号を頂いた一念(何兆分の1秒よりも短い時間のきわまり)に、永の迷いの打ち止めをさせられるのだと、こう言われています。
この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり(御文章)
「過去・現在・未来の三世を通して苦しめてきた迷いの親玉(無明の闇)が、弥陀より『南無阿弥陀仏』の大功徳を頂いた一念でぶち破られて、同時に、絶対の幸福(正定聚)に救い摂られるのである」
正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことで、等正覚ともいわれます。
事故や災害、病気など、どんなことがあっても崩れない、壊れない、裏切られない幸せですから、今日の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。
◆弥陀の救いは、信心一つ
「信心獲得」のことを「信心を獲る」「他力の信心」とも言われます。
親鸞聖人は、「弥陀の救いは、この他力の信心一つ」と教えていかれました。
ゆえに親鸞聖人の教えを「信心正因」とも「唯信独達の法門」ともいわれます。
蓮如上人はこれを、有名な「聖人一流章」の冒頭に、
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候
「親鸞聖人九十年の生涯、教え勧めていかれたことは、信心獲得ひとつであったのだ」
と明言されています。
「念仏さえ称えたら極楽へ往ける」など、断じて親鸞聖人の教えでもなければ浄土真宗でもないことが、このご文一つでお分かりでしょう。
そこで初めの質問に戻りますが、では「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称える」「念仏」とは、何なのか。
弥陀に救い摂られて(信心獲得して)からの「念仏」は、救いたもうた弥陀への感謝報恩(称名報恩)であることを、聖人は『正信偈』に、
唯能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし
(唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩)
「他力の信心を獲た上は、常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである」
と詳説されています。
蓮如上人も、先の「聖人一流の章」の最後に、
その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり
「弥陀に救われてからの念仏は、浄土往生が決定した大満足の心から、その御恩に報いる念仏である」
と明らかにされています。
この「信心正因、称名報恩」こそが、親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えなのです。
ここまでの話をまとめましょう。
【本願】
「阿弥陀仏の本願」とは、
「現在ただ今、絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の誓いのこと。それは五劫という気の遠くなるような長期間、熟慮に熟慮を重ねて誓われたお約束ですから、聖人は「弥陀五劫思惟の願」とも仰って、広大なご恩徳に感泣なされています。
【名号】
この弥陀の五劫思惟の本願と、兆載永劫の修行によって、十劫の昔にすでにでき上がったものが「南無阿弥陀仏」の六字の名号です。
【信心】
「信心」とは、大功徳の六字の妙薬をのんで、病気が全快した(無明の闇が晴れた)ことをいうのです。
【念仏】
病気を治して頂いたら、治して下さった医師に対して出るのがお礼の言葉です。そのお礼が「称名念仏」です。
顔中に飯粒をつけていても、食べなければ腹は膨れず餓死してしまいます。
何万回お礼を言っても、薬をのまずしては、病気は治りません。
「名号」は私が頂いて「信心」となり、その上は御恩報謝の「念仏」とならなければならないのです。
ゆえに「後生の一大事」助かるか、どうかは、「信心」一つで決するから、蓮如上人はこう仰っています。
祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一に限れり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす(御文章)
「親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのだ。浄土真宗か、どうかは、『信心一つ』の弥陀の救いを、知るか、否かで決するのである」
仏教で「肝要」とは、これ以上大事なものはないという極めて重い表現です。
その「肝要」に加えて蓮如上人は、「ただ」「一」「限れり」と、いずれも「たった一つ」を表す言葉を四つも使われて、「信心ひとつ」を強調されているのです。
微に入り細を穿っての懇ろな教導に、
「間違ってくれるなよ、『念仏さえ称えたら助かる』は浄土真宗ではない、『信心一つの救い』が親鸞聖人の教えなのだ、聞き誤ったら大変ですよ」
という、蓮如上人の熱き御心を感ぜずにおれないではありませんか。
◆焼けども失せぬ宝 「南無阿弥陀仏」
「南無阿弥陀仏」の大功徳を、蓮如上人はこうも絶讃されています。
物に飽くことはあれども、仏に成ることと、弥陀の御恩を喜ぶ、飽きたることはなし。焼けども失せぬ重宝は南無阿弥陀仏なり(御一代記聞書)
*御一代記聞書……蓮如上人の言行録
汗水流して建てた家も、マッチ一本で焼失する。
どんなに厳重に管理しても、金や財宝は盗まれることがある。
愛する妻子とも、やがて別れが訪れます。
一切が滅びる中で、「南無阿弥陀仏」だけは焼けども失せぬ宝。
その大功徳を弥陀から賜れば、焼けもせず、流されも、盗まれもしない無上の幸福に生かされ、浄土で仏になれるのだと、仰っているのです。
■Q5 ではどうすれば、その名号を頂けるのでしょうか。
お釈迦さまは、
「聞其名号」
「無上の功徳の名号は、聞く一念に我々に満入する」
と説かれています。「聞く一つ」で頂けるように、阿弥陀仏は名号を成就なされているのです。
■Q6どのように聞けばよいのでしょうか。
親鸞聖人は、こう和讃されています。
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり(浄土和讃)
「たとえ大宇宙が猛火に包まれても、その中、弥陀の名号(仏法)を聞く人は、不滅の幸せに輝くのである」
尋常ならざる、真剣な聞法の勧めです。
また、たゆまぬ聞法の大切さを、蓮如上人はこう細説されています。
至りて堅きは石なり、至りて軟かなるは水なり、水よく石を穿つ。「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり(御一代記聞書)
「至って堅い石でも、至って軟らかい水で穴が開く。
『初志貫徹すれば成就できぬことはない』と昔から言われるではないか。
どんなにしぶとく疑い深くとも、聴聞に身も心も打ち込めば、限りなく深い弥陀のお慈悲によって、必ず信心を獲ることができるのだ。
ただ仏法は聞くことが肝要である」
これら善知識方の教えに順って「聞法」に励み、信心獲得してお礼の念仏称える身とならせていただくのです。
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