意見がぶつかった時の心の持ち方を聖徳太子に学びます
人類が発生して以来、人と人の意見のぶつかり合いは、絶えたことはないのではないでしょうか。ニュースを見ても、子供のいじめ、高齢者の介護問題、国家間の紛争など、幼い子供から大人にいたるまで、意見のぶつかり合いの毎日と知らされます。
私たちは、大なり小なり、家庭や職場で、意見があわず、ケンカになったり、黙り込んだりしています。そのままにしておくと、心が苦しくなり、場合によっては、心のわだかまりが大きくなり、二度と修復できないかもしれません。
意見がぶつかった時、どのような心の持ち方をすればよいのか、まず聖徳太子に聞いてみたいと思います。
聖徳太子の十七条憲法に学ぶ
聖徳太子といえば、十七条憲法ですが、十七条憲法の十条に、このような言葉があります。
我必ず聖(せい)に非ず。彼必ず愚(ぐ)に非ず。共に是れ凡夫(ぼんぶ)ならくのみ。
(意訳)
私がいつも聖者、正しい訳ではない。相手がいつも愚者、間違っている訳でもない。私も相手も、ともに凡夫、誤った判断をする人間なのだ。
同じく十七条憲法の二条に
篤く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏・法・僧となり、則(すなわ)ち、四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何(いず)れの人かこの法を貴ばざる。
三宝とは、この世には、三つの宝があるということです。その宝とは、仏様であり、仏様の説かれた教え(法)であり、その法を正しく伝える人(僧)のことです。一言でいうと、仏教です。仏教は、すべての人を幸せにする教えだからであると書かれています。
聖徳太子は、仏教に造詣が深く、ここでも「凡夫」と仏教の言葉を使われています。
ともに凡夫とは
凡夫とは、仏教では、人間のことを言います。親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫と仰っています。凡夫とは、煩悩具足である、具足とは塊ということで、煩悩の塊が人間であるということです。
煩悩とは、1人に108ありますが、特に私たちを煩わせ悩ませるものが3つあります。三毒の煩悩といい、欲、怒り、愚痴の心をいいます。私たちは、朝から晩まで、心の中で何を思っているかというと、欲、怒り、愚痴といっても言い過ぎではないでしょう。この欲、怒り、愚痴の心がある為、人間は、理屈ではわかっていても、理屈通りにできぬところがあります。
それは、私だけではなく、すべての人がそうだと仏教では教えられています。
「私もそうだが、相手もそうだ。お互いが凡夫なのだ。」
この人間観をもつことができれば、一時、自分の意見を抑えて、相手の意見を心静かに聞いてみることができるのではないでしょうか。
親鸞聖人の歎異抄「善悪の二、そうじてもって存知せざるなり」の断言
歎異抄という有名な本には、親鸞聖人は、こう仰ったと記されています。
善悪の二、そうじてもって存知せざるなり。
(意訳)
親鸞は何が善で何が悪は、まったくわからない。
私たちは、ついつい、これは善、これは悪と、ハッキリわけてしまいますが、この世のことは、立場が変われば、今まで善だったのが悪になる、今まで悪だったのが善になることもあります。戦争は、その代表例です。
100%正しいということもなければ、100%間違っていることもないのです。
私は100%正しい、相手が100%間違っていると思い込んでいる時に、怒りの心が燃え盛ります。そんな時、100%はないのでは、と自分に問いかけることによって、少しは自分も間違っていた、少しは相手も正しいところがあると、意見を通わせる一端が見えてくるのではないでしょうか。
心のスイッチをもちましょう
「ともに凡夫のみ」「善悪、存知せず」「100%はない」など、スイッチになるような短い言葉を決めておきましょう。意見がぶつかった時には、この心のスイッチを押せばよいでしょう。聖徳太子、親鸞聖人は、常にそばにいるのです。
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