「恩徳讃」に生き抜いた本光房了顕 ──感謝の心で人生が変わる(3)
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親鸞聖人の燃ゆる恩徳讃
二十九歳の時、阿弥陀仏の本願に救われて、阿弥陀如来と師主知識の大恩を明らかに知られた親鸞聖人のご一生は「恩徳讃」に貫かれていました。
三十五歳、権力者から無実の罪で越後へ流刑にされるという無法な弾圧を受けられた聖人は、
「大師聖人(法然上人)もし流刑に処せられたまわずば、我また配所に赴かんや。もしわれ配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」。 (御伝鈔…親鸞聖人の曽孫の覚如上人が記された、聖人の一代記)
法然上人(親鸞聖人の師。浄土宗の開祖)が、もし流刑に遭われなかったら、親鸞もまた、流罪にならなかったであろう。もし私が流刑に遭わなければ、越後の人々に弥陀の本願、伝えられなかったに違いない。なんとありがたいことだったのか。全ては法然上人のおかげである
このように“流刑の苦難も越後の人々に本願をお伝えせよとの如来のご方便”と喜ばれ、厳寒深雪の越後路を一軒一軒、ひたすら布教に歩かれたのでした。
「この里に 親をなくした 子はなきか み法の風に なびく人なし」
かくも聞き難い仏法を聞けた親鸞は、なんと幸せ者か。弥陀が格別のお慈悲をかけてくださったとしか思えない。この「大悲の願船」、一刻も早く、越後の人々にお伝えしなければ申し訳がない。何としても伝えるぞ。
仏法を聞く人のないことが、かえって喜びや感謝となり、聖人の活動の原動力となったのです。
その後、関東での二十年間、還暦過ぎて戻られた京都でも、聖人は常に激しい非難攻撃を受けられましたが、
「誠に仏恩の深重なるを念じて人倫の哢言を恥じず」 (教行信証)
「深い阿弥陀仏のご恩を思えば、世間の悪口や非難などで逡巡してはおれない」と衆生済度の報恩行に突き進まれたご生涯でありました。
誰のための「大悲の願船」か
このように、「恩徳讃」がただの形容詞でないことは、親鸞聖人のご生涯を知れば明らかです。
“どうしても目に見えない阿弥陀さまのご恩を感じることができない……”
と思う人もありましょうが、大悲の願船に乗せていただけば、誰でもハッキリ知らされます。
仏法を真剣に聞けば、ちょうど、どんな親不孝な子供でもやがて親の恩の深いことを知らされるように、阿弥陀如来の広大なご恩が「恩徳讃」のように知らされるのです。
大悲の願船に乗せていただくには、親鸞聖人も蓮如上人も、
「聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」
「仏法は聴聞に極まる」
“聞く一つ”だから、よくよく聴聞して、早く救っていただけよ、と教え勧められています。
大悲の願船に乗せられた聖人は、こうも仰っています。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」(歎異抄)
弥陀が五劫という幾億兆年よりも永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人のためだった
弥陀の狙いは「私一人がため」。極悪最下の私一人を乗せて救うために弥陀は大悲の願船を造られたのだと泣かずにおれないのです。
「祭りには 皆とはいえど 気は娘」
村の祭りが間近に迫る。父親が娘の嫁ぎ先に、案内に赴いた。
「もうすぐウチの村の祭りです。どうぞ皆さんでお越しください」
こんな時、真に受けて総出で出掛けていくようでは、親心の分からぬ人と言われましょう。父親の真意は、
“どうか娘に里帰りを”。
「皆さんで」とは言っても、気持ちは実の娘一人にかかっているのです。
大悲の願船は、あなた一人を助けんがために、難度海の波をかき分け、すでに眼前まで来ているのですが、疑って乗らないから、苦しんでいるのです。
十方衆生(すべての人)を相手に誓われた弥陀の本願は「私一人がためだった」と聞かせていただけるまで、聴聞の一本道、進みましょう。
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