たくさんの仏教宗派がある中でなぜ「親鸞聖人の教え」なのでしょう?(後)
前半はこちら
生きるのは、暇つぶし?無駄な抵抗?
苦難、困難の波を何度も乗り越えて私たちは生きていくのですが、やがて行き着く先はどこでしょうか。
必ず力尽きる死が待っています。
「人生は死ぬまでの暇つぶし」
と言った人がありますが、苦しい思いをしてまで、暇つぶしをする必要はないでしょう。
それどころか死ぬのは誰でも嫌ですから、体によい食べ物、適度な運動を、と健康に気遣い、少しでも死を遠ざけようと日々努力しています。
しかし、完全に死を回避することはできません。
コンビニに押し入り人質を取って立て籠もる強盗に、説得を試みる警察官、「おまえはもう包囲されている。無駄な抵抗はやめろ!」
果たして無駄な抵抗をしているのは、この強盗だけでしょうか。
相次ぐ災害に、「自分の命は自分で守ろう」と声高に言われます。
災害への備えはもちろん大事ですが、自分の命を完全に守り切れる人があるでしょうか。
誰もが「絶対に負ける戦い」をしているのです。
「死にたくない」と抵抗を続けて、あがき、もがいた揚げ句にこの世を去っていくのですから。
人生は旅、すべての人は過去から未来へ行く「旅人」だと歌われています。
旅人はジッとしておらず、この人生も通過点に過ぎない。
死は次の旅への出発だから、死ぬことを「旅立つ」という。
では死んでどこへ旅立つのか?行く先はハッキリしているのでしょうか。
エレベーターも、いつまでも乗ってはおれません。必ず降りねばならない時が来ます。
降りた先はどんな世界か。知らずにエレベーターに乗ってはいないでしょうか。
親鸞聖人は未来の「行く先」が、現在ただ今ハッキリするぞ、と明らかに教えられているのです。
絶対の幸福に向かって輝く日々に
親鸞聖人は、今死んでも浄土往生間違いなしの「往生一定」になることがこの世に生まれた目的なのだよ、と教示されています。
これこそ「なぜ生きる」の答えなのです。
「往生」とは、「往」はユク。地獄や餓鬼界にゆくのでない。本師本仏である阿弥陀仏の極楽浄土へ往くことです。
「生」はウマレル。ですから、阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、弥陀同体の仏に生まれることを「往生」といいます。世間で、困った時や死んだ時に「往生した」などと言うのは、全く間違っています。
「一定」とは、ハッキリすること。平生ただ今、いつ死んでも極楽参り間違いないとハッキリしたことを「往生一定」というのです。
そんな身に、どうしてこの世でなれるのか。
それはひとえに阿弥陀仏の本願力によってであると、親鸞聖人は和讃で教えられています。
生死の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける(高僧和讃)
苦しみの波の絶えない海に、永らくさまよい続けてきた私たちを、阿弥陀仏の本願の大船だけが、乗せて必ず浄土まで渡してくだされるのである
阿弥陀仏の本願の「本願」は「誓願」ともいい、大宇宙最高の仏である阿弥陀仏のなされているお約束のことです。
阿弥陀仏は、
「すべての人を必ず往生一定(絶対の幸福)に救う。もしできなかったら仏のさとりを捨てる」
と誓われています。
煩悩具足の私たちを、そのまま弥陀の大船に乗せて助ける、との命懸けてのお約束です。
この弥陀のお力によって「弥陀弘誓の船」に乗せられ、絶対の幸福に生かされた乗船者は、来世は往生即成仏(浄土に往くと同時に弥陀同体の仏になる)の身となります。
仏教にはいろいろの宗派がありますが、全ての仏教に共通の目的は仏に成ること。
しかし、極楽浄土に往って直ちに弥陀同体の仏になれる、と平生ただ今ハッキリする教えは親鸞聖人の教えだけなのです。
これを「現生正定聚」といわれます。
「正定聚」とは、正しく仏になると定まった人たち。現在生きている時に、正定聚になれるのです。これを「平生業成」ともいいます。
この親鸞聖人のみ教えを、蓮如上人は有名な「聖人一流章(御文章五帖目十通)」にこう仰っています。
不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう
阿弥陀仏の不可思議の本願力によって、弥陀弘誓の船に乗せていただき、往生一定(往生は治定)の身にならせていただける。
「人生の目的を達成したぞ。たとえ体が動かなくなっても、これ一つ果たすために生まれてきたのだ。平生の一念に絶対の幸福になれたぞ」
そんな生命の大歓喜を味わうことができるのです。
そして、蓮如上人は、その身に救われたならば、お礼の念仏を称えずにおれなくなる、と同じ「聖人一流章」に、
その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり
と仰っています。
往生一定、絶対の幸福に助けていただいて称える念仏は、お礼(御恩報尽)であるとの教えです。
生きては正定聚の絶対の幸福、死しては往生即成仏で弥陀同体のさとり。
この世も未来も完全に救い切ってくださるのが、本師本仏の阿弥陀仏の本願なのです。
それには、
「仏法は聴聞に極まる」
聞く一念になれるのですから、真剣に弥陀の本願を聞き求め、光に向かって一日一日進みましょう。
無駄な抵抗どころではない。必ずや、光明輝く人生が開かれるのです。
まとめ
●「なぜ生きる」親鸞聖人のお答えは、「阿弥陀仏の本願力によって、往生一定、絶対の幸福になること」。
●極楽浄土に往って直ちに弥陀同体の仏になれる、と生きている今ハッキリする教えは、親鸞聖人の教え以外にない。
●往生一定になるには「聴聞に極まる」と教えられている。
最新記事 by あさだ よしあき (全て見る)
- 親鸞聖人が教えるお盆に思い出す亡くなった人に今からできる恩返しとは(前) - 2024年9月25日
- 他力本願の本当の意味|「他力本願」=「人まかせ」ではありません - 2024年7月24日
- お釈迦さまが説かれた底抜けに明るい”心の長者”とは(後) - 2024年7月22日
次の記事