親鸞聖人の長子・善鸞の邪義と日蓮の出現5
たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
(意訳)
この親鸞、たとい法然上人にだまされて地獄に堕ちてもさらに、後悔はないのだ。
私たちは、信頼できる方、だまさないと思う人を先生・師匠と仰ぎます。世の中には様々な道の先生がいます。例えば剣道・柔道などのスポーツや、書道・華道・絵画などを教える先生がありますが、親鸞聖人にとって法然上人は、往生極楽の道を教示してくださる唯一の師でした。
もしその先生からだまされたらどうなるか。信頼が深いほど、裏切られたら深く傷つき、怒り恨みの毒を吐くのが普通でしょう。「私は裏切られても後悔しない」という人は、あまり相手を信じていないからです。では親鸞聖人は、師匠の法然上人をあまり信頼されていなかったのでしょうか。もちろんそうではありません。
この方にならだまされても後悔しない、とはどんな信じ方なのでしょう。その理由を親鸞聖人はこう語られています。
その故は、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(意訳)
助かる縁、微塵なりともある親鸞ならば、だまされて地獄に堕ちた、という後悔もあろう。だがのお、金輪際、助かる縁の絶え果てた親鸞、地獄へ堕ちて当然。
助かる可能性ゼロ、地獄に堕ちて当然の親鸞だから、のだと言われるのです。
地獄一定の極悪人と知らされた親鸞聖人が、そのまま救う阿弥陀仏の本願まことだったと絶対の幸福に生かされ、天に踊り、地に躍る喜びの身になられました。
阿弥陀仏の本願まこと、法然上人の仰るとおりであったとハッキリし、だまされようのない身になられたので「この親鸞、たとい法然上人にだまされて地獄に堕ちてもさらに、後悔はないのだ」と言えたのです。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。
(意訳)
弥陀の本願がまことだから、それひとつ説かれた釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろうはずがないではないか。法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか。弥陀の本願まこと、これが親鸞の信心だ。
*善導……約1300年前、中国の方。親鸞聖人が最も尊敬されている一人。
弥陀の本願が真実か否かをお聞きするためにやってきた関東の人たちに親鸞聖人は、「弥陀の本願まことだから」と仰っています。
「おわしまさば」とあるので、「弥陀の本願がまことであるならば」と、仮定の意味だと理解する人がありますが、親鸞聖人は著作の至るところに“弥陀の本願まこと”、“本願以外まことはない”と断言されています。その親鸞聖人が本願を仮定で仰るはずはありません。
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。(歎異抄)
(意訳)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
どんなに信頼できる人や物でも、絶対に私を裏切らず、見捨てないと言い切れるでしょうか。
「彼は信用できる、大丈夫だ」「この土地は地震が起きたことがない、安全だ」と頑張るのは不安の裏返しかもしれません。いつかどこかで裏切られる、夢幻のごとき人生。ひょうたんの川流れのような、よりどころのない浮世に唯一つ、弥陀の本願念仏のみがまことなのだから皆々信じなさいと、不惜身命の90年、叫ばれたのが親鸞聖人です。
そのまことの弥陀の本願が関東の人たちにはいま一つハッキリせず、一番信じられるのは親鸞聖人でした。だから、お金も時間も苦労もいとわず、関東から1ヶ月以上かけて、親鸞聖人にお聞きしに来たのです。
そんな彼らに、何の証明も解説もなしに「弥陀の本願がまことなのだから」と、関東の人たちの最もハッキリしない「弥陀の本願まこと」を大前提として話を進められました。弥陀の本願にハッキリ救い摂られた親鸞聖人には、これ以外の表現はありえなかったのでしょう。
怒涛逆巻く海に、天上の月が宿れば、その月影は流されも、壊れも、消えもしない。たとえ釈尊・善導・法然さまにウソ偽りがあろうとも、弥陀の本願に直結した親鸞の心は微動だにもしないのだ、との仰せです。
「いくら言っても、親鸞の信心、この外何にもござらぬ。一向に、変わり申さぬ」と重ねて断言された心こそ、関東の人たちが最も聞きたかったことでした。
(続き)
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