親鸞聖人と「浦島太郎」|あっという間に過ぎ去る人生(後)
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「悪にまみれたすべての人を必ず助けてみせる」|「願力無窮」の阿弥陀如来
悪の自覚もなく安穏に生きる浦島太郎のような私たち。
その人間の実態を知らせ、救わんとして説かれたのが真実の仏教です。
悪を造らねば生きてはいけない
浦島太郎は、魚釣り竿でおびただしい命を奪っている自覚もなく、一匹の亀を助けようと思いました。
同様に、恐ろしい自己の姿に気づかず、善いことをしていると思って私たちは生きています。
しかし、ふと、気づかされることがあります。
無邪気そうな子供が、サケの稚魚を放流し、笑顔で手を振っている。
「大きくなって帰ってきてね」
やがて育って帰ってきたサケは、釣り上げられ切り裂かれて食卓を飾ります。
牛や豚に良質の餌を与え、毛にブラシをかけてかわいがっていますが、目的は殺して食べるためです。
生きた牛や豚や鶏を、自分の手で殺せる人はどれだけあるでしょう。
屠殺場を見ても目を背けずにおれない。まして手にかけて殺すなど、とても。
しかし私たちは毎日、そんな恐ろしいことを誰かにやってもらって、肉を食べ、殺生をし続けているのです。
「生命を頂いた分、一生懸命生きればよい」と言われますが、どこへ向かって一生懸命生きるのでしょうか。
蜘蛛が網をかけねば生きられぬように、己の業界から抜け出せず、罪悪を造らずしては生きられぬ私たちの姿を親鸞聖人は、このように仰っています。
悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のごとくなり
悪のやまらない親鸞。
心はヘビやサソリを見た時のようにゾッとする恐ろしさだ
生きるために恐ろしいことや、あさましいこともやらざるをえない。何とも救われ難き身です。
そんなご自身の姿を
一生造悪(正信偈)
一生悪を造り続けの親鸞だ、とも仰っています。
そんな悪人と知り、悔い改める者なら殊勝ですが、
邪見憍慢悪衆生(正信偈)
で、うぬぼれて、悪性のわが身を正しく見ることができない。
さりとて恐ろしい罪を犯している不安も払拭できず、
「生きるためには仕方がない」と、言い訳せずにおれない。
これが人間の限界なのです。
自覚なき極悪人を「われひとり助けん」
悪業をば恐れながらすなわち起し、善根をばあらませども
得ること能わざる凡夫なり(口伝鈔)
悪を恐れながら、悪しかできず、善行をしようと思ってもできない人間である。
息するままが悪の種まき、地獄へ運ばれる悪性の身。
それを大宇宙最高の仏である、阿弥陀仏だけが
「われひとり助けん」(私が必ず助けよう)
と立ち上がってくだされたと、蓮如上人はこう仰っています。
十悪・五逆の罪人も、(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して(御文章二帖目八通)
十悪五逆の罪人とは、すべての人のこと。
古今東西のすべての人間は、皆罪人だと言われています。
しかも日々の楽しみに心を奪われ、罪を重ねている自覚がない。
魚釣り竿でこれまで計り知れぬ殺生を重ねながら、一匹の亀を助け、善人とうぬぼれる浦島太郎のごとく、罪と教えられても、本心は恐ろしいとも思わず、人生をアッという間に流して酔生夢死するのです。
これを「無慚無愧の極悪人」と、親鸞聖人は言われています。
「無慚」とは、自分に恥ずる心のないこと、「無愧」は他人に恥ずる心がないことです。
悪にマヒし切った私たちですから、大宇宙の仏方は“助かる縁手掛かりなし”と見捨てられたのだ、と蓮如上人は仰っています。
だが、“そんな者は、絶対に救われぬだろう”と絶望することはない。
その極悪人を「必ず救う」とただ一仏、誓われたお方がましますと、
然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり。この如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も三も、有るべからざるものなり。(御文章二帖目八通)
と仰っています。
その無限のお力を持たれた阿弥陀仏の救いを、親鸞聖人はこう讃嘆されています。
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませ
散乱放逸もすてられず
阿弥陀仏のお力は絶大で底無しだから、どんな罪の重い者も助けてくださるのだ。
阿弥陀仏の願力によって「罪業深重」「散乱放逸」の私と知らされた人のみが、「願力無窮」「仏智無辺」の偉大な弥陀のお力に感泣せずにおれない。
この阿弥陀仏に助けていただくよりほかに、極楽に往生する道は二つも三つもないのです。
玉手箱はもう開いている
では、どうすれば弥陀に救い摂られるのでしょうか。
蓮如上人は、
「仏法は聴聞に極まる」
と教えられます。
阿弥陀仏の本願は、聞く一つで救うお約束なのです。
ところが、
“そうは仰るけれど……聞くだけで助かるのかしら?”
“私など救われないのでないか、難しいのではないか”
と、弥陀の御心を聞かず、はねつけています。
そんな私たちに、凡夫の愚かな知恵でモタモタ思案せず、ひたすら光に向かって進めと、
「聞思して遅慮することなかれ」と親鸞聖人は教示されています。
もう玉手箱から煙は立ち昇っています。
人生の終着駅に着く前に、弥陀の本願を聞き抜いて、決して後悔なきようにと、聖人は全身全霊で、真剣な聞法を勧められているのです。
“阿弥陀仏のお約束、誠だった”と信知させられるまで聞法精進いたしましょう。
*聞思……聴聞のこと
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