どっこいしょの語源は仏教?|六根清浄と本当の人間の姿
重いものを持つときや立ち上がるときに「どっこいしょ」と言うことはないでしょうか。
「どっこいしょ」と言うようになったら歳をとった証拠と言われますが、なぜ力を入れるときに「どっこいしょ」と言うのでしょうか。
諸説ありますが「どっこいしょ」は仏教の言葉から来たという説があります。
「どっこいしょ」の語源は「六根清浄」
「どっこいしょ」という言葉は仏教の「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」から来ています。
六根とは眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の6つの感覚のことを言い、この6つの感覚により煩悩が起こり、その煩悩によって苦しむことから、修行者は修行をして六根を清らかにして苦しみから離れ、清らかな存在である六根清浄を目指します。
修行者は不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、考えないようにして心を清らかにするため、それらとの関係の少ない山で修行をしますが、そのとき「六根清浄」と唱えて山に登っていたことが起源となり、それがなまって「どっこいしょ」となったそうです。
六根は清浄にできるのか
では山を登って修行すると六根を清浄にして、煩悩を減らしたり無くしたりすることはできるのでしょうか。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、煩悩は死ぬまでなくなりもしなければ減りもしないことを次のように仰っています。
「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで、止まらず、消えず、絶えず。
凡夫とは人間のことです。
「人間は欲や怒り、腹立つ心、妬み、そねみなどの塊であり、これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。もちろん、断ち切れるものでは絶対ない」と教えられた親鸞聖人のお言葉です。
このような人間の本当の姿を「煩悩具足の凡夫」といわれます。
そして、縁さえ来ればどんなことでもする親鸞だと、こうも告白されています。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)
口や身体に出さないのは「縁」が来てないだけ。心の中では、誰にも言えない恐ろしいことを思い続けている、との懴悔です。
親鸞聖人は、九歳から二十九歳までの二十年間、煩悩をなくそうと比叡山で猛烈な仏道修行に取り組まれましたが、どうにもならぬ煩悩に、泣く泣く下山されています。
そして、「煩悩具足の者を、そのまま助ける」という阿弥陀仏の本願によって救い摂られたのです。
阿弥陀仏の本願についてはこちらをご覧ください。
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