親鸞聖人と湘南海岸の御勧堂
関東ご布教の最南端はどこか。神奈川県の相模湾に面した国府津に、親鸞聖人が説法されたご旧跡「御勧堂」があります。56歳のころから、しばしば布教場所を広げられたといいます。
この地で、仏縁を結んだ了源房は、日本三大仇討ちとして有名な曽我兄弟の子供でありました。親鸞聖人のお手紙にも「平塚の入道」として登場しています。どんなドラマがあったのでしょうか。
近くの漁民を集めて説法された草庵は「御勧堂」と呼ばれています。親鸞聖人が、いかに聞法を強く勧めておられたかを表しているようです。
60歳過ぎ、親鸞聖人が関東へお帰りになるため、この地を通られました。すると大勢の人が集まり、あまりにも別れを惜しむので、親鸞聖人はしばらく御勧堂に滞在され、最後の説法をされたといいます。
平塚入道の往生
国府津の御勧堂で、親鸞聖人のお弟子になった人の中に、「了源房」がいます。『末灯鈔(まっとうしょう・親鸞聖人のお手紙)』の中にも「平塚の入道」として登場する人物です。彼は、どのようにして仏法に巡り遇ったのでしょうか。
了源の祖父・河津祐泰は、領地争いで、工藤祐経に殺されました。この時、30歳の若さであったといいます。妻は、二人の子供、十郎、五郎を連れて曽我祐信と再婚。兄弟は仇討ち一つを目指して成長していきました。
建久4年5月、源頼朝は富士の裾野で巻き狩り(四方を取り巻いて獲物を追い込む狩り)を実施しました。工藤祐経も側近として同行しています。曽我兄弟は、好機到来と、28日の深夜、工藤の陣屋に斬り込み、仇討ちを遂げたのです。
「曽我の十郎、五郎、父の敵・工藤祐経を討ち取ったり。この上は頼朝公に仇討ちに至る事情を訴えん」
と、一直線に頼朝の本営へ向かいました。しかし、十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられ、翌日、打ち首になりました。十郎22歳、五郎20歳でした。
この仇討ちは、たぐいまれな義挙といわれ、曽我兄弟は武士の鑑と、うたわれました。「日本三大仇討ち」といえば、曽我兄弟の富士の夜襲、赤穂浪士の吉良邸討ち入り、荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘、といわれます。
了源房の父は、討ち死にした曽我十郎です。この時、いまだ母の胎内にあり、父の死後出生しました。成人して21歳の時、和田義盛の乱に軍功を立て、将軍に仕官して、相模国平塚の郷を与えられました。
ここに晴れて家名を再興し、河津信之と名乗ったのです。
しかし、一族の宿願を果たした了源の心は晴れませんでした。
「祖父は30歳で殺され、父は22歳で討ち死にした。わが一族は皆非業の死を遂げている。どんな悪業の報いなのか。たとえ今、自分が絶えた家を興し、再び父祖の名をあらわしたとしても、結局、この世のことは夢幻ではないか。武門に身を置いてはかえって罪を重ね、後生に大変な苦しみを受けることは明らかだ。今こそ真実の幸福を得たい」
了源房は、髪をおろして出家しました。ちょうどその時、国府津の御勧堂で親鸞聖人が説法しておられるという話を聞き、急ぎ参詣したのです。
親鸞聖人は、了源に阿弥陀仏の本願を説かれ、次のようにおっしゃいました。
「どんな人でも、阿弥陀仏の本願に救い摂られれば、過去世からの永い迷いを離れ、清浄安楽の仏土に往生できる。そなたの親族がいかなる業報を受けていようと、そなたが往生を遂げて仏となれば、思うままに教化を施し、同じく浄土へ導くことができるだろう」
了源は喜びの涙に暮れ、親鸞聖人のお弟子になりました。以来、布教に努め、60歳で亡くなっています。
甲斐の閑善房
御勧堂で仏縁を結んだもう一人のお弟子を紹介しましょう。
甲斐国(山梨県)に、小笠原長顕という武士がいました。彼は、世の無常を強く感じ、真の人生の師を探し求めていました。しかし、甲斐国には、見つからず、長顕はむなしく年月を送っていました。
ある時、親鸞聖人が相模国(神奈川県)国府津で、阿弥陀仏の本願を説かれているという話が伝わってきました。彼は直ちに故郷を振り捨て、親鸞聖人の元へ急ぎました。親鸞聖人は長顕の求道心の深さを感じられ、仏法を懇ろに話をされました。
長顕はその場で、親鸞聖人のお弟子となり、閑善房と名を改めました。これより閑善房は親鸞聖人のおそばを離れず、求道に励み、ご帰洛の時もお供をしています。
東海諸国を経て尾張国に入られた時のことです。親鸞聖人は大浦の真言宗の寺にしばらく滞在され、地元の人々に説法されました。
短期間でしたが、非常に大きな反響があったことが次の記述で分かります。
「遠近の道俗、市のごとく群集し、隣里の男女、山のごとくに参詣し、各聞法随喜せずという事なし」
(二十四輩順拝図会)
いよいよ、親鸞聖人が京都へ向け出発される時、地元の人々は、親鸞聖人に願い出ました。
「どうか、お弟子の方をお一人、当地にお残し願えませんか。続けて阿弥陀仏の本願を聞き求めたいのでございます」
この大役を親鸞聖人は、閑善房に命じられました。彼はよく師の仰せと羽島の人々の要望に応え、親鸞聖人の教えの徹底に生涯を懸けたといいます。
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