親鸞聖人の長子・善鸞の邪義と日蓮の出現3
命懸けの聞法の旅
親鸞聖人のお弟子の代表、性信房(しょうしんぼう)は、「京へ行って、じかにお師匠さまにお聞きしよう」と訴え、一同は京行きを決意しました。
とはいえ、新幹線も電話もメールもない当時、京へは歩いていくよりありません。まさに命懸けの旅でした。京都までは武蔵、相模など十以上の国があり、片道1ヶ月、往復で2ヶ月かかったといわれます。
その間の宿代や食費等、多額の旅費も必要です。道中には、箱根の山や大井川など自然の難所があり、山賊や盗賊もウロウロしています。護摩の灰もいる。生きて帰れる保証など、どこにもありませんでしたが、それでも行かねばならぬ聞法の旅でした。
*護摩の灰……昔、旅人の姿をして、道中で、旅客の持ち物を盗み取った泥棒
関東の人たちは、
たとい大千世界に みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名(仏法)を聞く人は ながく不退にかなうなり
(浄土和讃)
(意訳)
たとえ、大宇宙が火の海になろうとも
そのなか仏法聞き抜く人は必ず不滅の幸せに輝くのだ
親鸞聖人の常の教えに従い、それぞれが困難を乗り越えて、決死の覚悟で京へと旅立ったのです。
いよいよ親鸞聖人の館へたどり着いた関東の人たちは、親鸞聖人の尊容を拝し、懐かしさと感激でいっぱい、思わず両手を突きました。
生きて再会できた喜びは言葉にならず、「親鸞さま……」とすすり泣く。親鸞聖人は優しいまなざしで見渡された後、彼らにこう直言されています。
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
(『歎異抄』第2章冒頭のお言葉)
(意訳)
おのおの方、十余ヶ国の境を越え、身命の危険を冒してまで、この親鸞に問いただしたきご存念、親鸞、よーく、存じている。往生極楽の道、ただ一つでござろう。
武蔵、相模、駿河など十以上の国を越え、はるばるやってきた人たちに、親鸞聖人は、「遠路よく来られた」「久しぶりだな」「変わりはないか」など、いたわりの言葉も慰めの一言もありません。
関東から来た人たちの厳しい思いを察知なされて、親鸞聖人もまた、真剣に彼らに対峙されました。
関東の人たちが馳せ参じた理由をズバリ「身命を顧みず、訪ねてこられた目的は、往生極楽の道、ただ一つのためであろう」と仰っています。
往生極楽の道
往生極楽の道とは、阿弥陀仏の本願のことです。阿弥陀仏の本願とは「すべての人の後生暗い心をぶち破り、極楽浄土へ必ず往ける大安心・大満足の身にしてみせる」お力のことです。
後生暗い心とは、死んだらどうなるか分からない心のことです。100%確実な未来が分からない、この心こそ、すべての人の苦悩の元凶と仏教では見抜かれています。未来が暗いと、現在が暗くなる。現在が暗いのは、未来が暗いからです。5日後に大手術を控えた患者に「今日だけでも楽しくやろう」と言ってもムリなように、後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、できる道理がありません。
それが、阿弥陀仏の本願のお力により、平生、後生暗い心がぶち破られ、後生明るい心に救われた人は、死ねば必ず極楽浄土に往って、仏に生まれることができるのです。それで、阿弥陀仏の本願を往生極楽の道といわれます。
極楽とか浄土と聞きますと、「死んだ後、地獄や極楽があるとかないとか、昔ならいざ知らず、今どき、おとぎ話でないか?そんなこと、どうして信じられる?」という人も少なくありません。
あるアンケートによると「死んだらどうなると思う?」の問いに、“無くなる”と答えた人は66%、“何か別の世界がある”は34%でした。死んだら“無になる”と思う人が大変多いのですが、皆さんはどのように考えていますでしょうか?
“考えたことないわ”という方も、自分の行く先を、一度、考えてみていただきたいと思います。
「門松は冥土の旅の一里塚」
禅僧一休の歌のごとく、1年たてば1年、それだけ大きく冥土(死後の世界)へ近づいているのです。生は死への行進であり、死は全人類の100%確実な未来ですから、「死んだらどうなるか」の問題と、無関係な人はありません。
来世は、有るのか、無いのか──?尋ねられれば自分の信条を答えることはできても、“分からないナァ”が、本音のところではないでしょうか。“無い”と言っていても、絶対に無いとは言い切れない。“有る”と考える人も、どんな世界なのか、明言はできないでしょう。
未来がハッキリしていないほど、不安なことはありません。行く先が暗ければ、今から心が暗くなるからです。
慣れない土地で初めてバスに乗った時など、目的地に着くまで不安な思いをした経験はないでしょうか。未来が暗いと、現在が暗くなります。
不安や苦悩の絶えない人生になる根本原因は、未来(死後)どうなるか分からない「後生暗い心」一つであると、親鸞聖人は教えられています。
生死輪転の家に還来することは
決するに疑情を以て所止と為す
(正信偈)
「生死輪転の家に還来する」とは、苦しみ悩みから離れられないことをいいます。その原因は何か。「決するに」とは、ただ一つということです。疑情(後生暗い心)一つであると教えられています。
平生に、この「後生暗い心」を破り、「後生明るい心」にするのが阿弥陀仏の本願です。この阿弥陀仏の本願によって、いつ死んでも極楽往き間違いない身に生かされます。阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は、往生極楽の道と教えられています。
親鸞聖人は関東で20年、教え続けられたことは、この阿弥陀仏の本願、往生極楽の道一つでありました。関東の人たちも20年、このこと一つをお聞きしていたのです。
にもかかわらず、善鸞、日蓮の言葉で、心が大きく動揺し、真偽をハッキリさせたいと立ち上がったのでした。それは親鸞聖人一人を慕っての参上ではありましたが、「ほかに救われる道があるのでは……」「だまされているのではなかろうか?」という親鸞聖人への不信でもあったのです。
その心を見抜かれて、「そなたたちが命懸けて訪ねてきた理由は今更聞かずとも分かっている。私が関東で教えてきた阿弥陀仏の本願が信じられず、何が往生極楽の正しい道なのか、確かめるためであろう」と言われているのです。
美文で有名な『歎異抄』ですが、この第2章は、心中にたぎる怒りから発せられた親鸞聖人のお言葉が記されています。
(続き)
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