仏教で知る【人生で最も大事なこと】とは(前半)
「親鸞聖人の教えに出遇う前は、何に悩んでいましたか?」
家庭や職場の人間関係、お金、病気などの悩みが、
聞法のきっかけになったという人が少なくないようです。
こんな声も寄せられています。
「仏法を聞いて、人間関係もよくなり、
人生が明るく変わってきました。
しかし、仏法の本当の目的はもっと深いところにある、とも聞きますが……」
仏教を聞くのは何のためなのか?
親鸞聖人、蓮如上人にお聞きしましょう。
夫婦の悩みをきっかけにもっと大事なことを知らされました
「夫が嫌いなわけではないんです。ただ、すぐ口論になっちゃって……」(Tさん・70代女性)
夫の一言に怒りが治まらず、家事を放棄して外に飛び出したこともよくあったとのこと。
仏法を聞くまで夫との関係に永らく悩んでいたといいます。
そんなTさんがある話を仏教講演会で聞き、大変わりしました。
「皆さんは、自分を『善人』だと思われますか?『悪人』だと思われますか?」
* *
ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、平和そのもののB家とが隣接していた。
ケンカの絶えないA家の主人は、隣はどうして仲よくやっているのか不思議でたまらず、ある日、
B家を訪ね、一家和楽の秘訣を伝授してもらいたい、と懇願した。
B家の主人は言った。
「別にこれといった秘訣などございません。ただお宅さまは、善人サマばかりのお集まりだからでありましょう。
私の家は悪人ばかりがそろっていますので、ケンカにはならないのです。ただそれだけのことです」
てっきり皮肉られているのだと、A家の主人は激怒して、
「そんなばかな!!」と言おうとした時、B家の奥で皿か茶碗でも割ったような大きな音がした。
「お母さん、申し訳ありませんでした。私が足元を確かめずにおりましたので、大事なお茶碗を壊してしまいました。私が悪うございました。お許しください」
「いやいや、おまえが悪かったのではありません。先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、そんなところに置いた私が悪かったのです。すまんことをいたしました」
と、嫁と姑のやり取りが聞こえてきた。
「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。ケンカにならぬ理由が分かった」
A家の主人は感心して帰ったという。
* *
「A家はわが家だ。いつも、正しいのは自分、と思っているから夫と衝突するんだわ……」
自分を変えたい。仏教では心を重く見る。私の心を変えねば、幸せにはなれないのかしら。
もっと親鸞聖人の教えが聞きたい……。
気がつけば、夫との口論もすっかり減り、電車で出掛けた帰りには、夫が駅まで車で迎えに来てくれるようになったといいます。
「主人も私の聞法を支えてくれているんです。そうして続けて仏法を聞くうちに、人間関係の悩みより、もっとずっと大事な問題が人生にはあると知らされてきました」
親鸞聖人の示された仏法聴聞の原点
お金や病気、人間関係の悩みなどよりもっと大事な人生の問題とは何でしょう。
なぜ私たちは仏教を聞かねばならないのでしょうか。
親鸞聖人はこのようにお示しくださっています。
聖人がまだ「松若丸」といわれていた幼少期のエピソードです。
◆
四歳でお父様と死別された松若丸は、母君お一人の手で成長なされた。
だが八歳の時に、そのお母様も亡くなってしまう。
母君の野辺送りのあと、松若丸はしばし伯父・範綱と西の空を見上げていた。
飛んでいく雁の群れを眺めながら、松若丸が問う。
「どこへ行くんでしょう」
「雁も、うちに帰るんだろう」
「いいえ伯父様、人は死ねばどこへ行くのでしょうか」
予期せぬ言葉に、範綱は戸惑いの表情を浮かべ、
「ん?うーん、どこか遠い所だろうなあ」
「どんな所でしょうか。遠い所、とは」
「どんな所かと言われてもなあ」
返答に窮する範綱卿。松若丸は一人つぶやかれた。
「死ねばどうなるんだろう」
◆
幼くして両親の後ろ盾を失われた聖人には、もちろんこの先の生活の不安もあったでしょう。
しかし、それよりも大きな問題は何か。
「次は私が死んでいかなければならないと思うと、不安なんです。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです」
死んだ後のことを、「来世」とも「後世」とも「後生」ともいいます。
一日生きれば一日、一夜明ければ一夜、確実に近づいているのが来世であり、後世です。
これを否定できる人はありません。
その「後世」が明るいか、暗いか。百パーセント逃れられない未来なのに、その行く先が全くハッキリしていないことに、親鸞聖人は驚かれたのです。
「来世は、どこへ行くのか?」
後に「世界の光」といわれる聖人の原点がここにあります。
そして、これは私たちの仏法聴聞の原点でもあるのです。
最重要ポイントを知る「智者」に
蓮如上人は次のように教えられています。
それ、八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす、
たとい一文不知の尼入道なりと
いうとも後世を知るを智者とすと言えり
(御文章五帖目二通)
地球上にどれだけ多くの人がいても、「智者」と「愚者」の二とおりしかいない、と仏教では教えられます。
どんな人が智者で、愚者なのか。
「八万の法蔵」とは、お釈迦様のご説法を書き残された一切経のことです。
今日でいえば百科事典を丸暗記して、どんな質問にもパッと答えられる頭脳明晰な人を、「八万の法蔵を知る」と言われています。
そんな人でも、最も肝心なわが身の行く末、後世が暗く、死ねばどうなるか分からぬ人は、本当の智慧ある人とは言われない。
物知りな智者と他人には言われても、幸せの最重要ポイントが抜けたら、仏教では後生暗い「愚者」なのです。
では仏教で「智者」といわれるのはどんな人なのでしょう。
蓮如上人は、
「たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とす」
と仰っています。
「一文不知の尼入道」とは、文字のタテヨコも分からぬ人。
新聞を読んでもチンプンカンプン、というような人です。
しかしそんな人でも、「死ねば必ず極楽浄土へ往って仏になれる」と後生ハッキリしている人は、後世を知る「智者」だと仰せです。
どれだけたくさんの人がいても、この智者と愚者しかいない。
智者か愚者かを峻別する「ものさし」は、才能の有無、知識の量、社会的な地位や名声などではなく、
「後世を知るか、否か」これ一つだと仏教は教えられるのです。
“一文不知”ではもったいない
浄土真宗の人の中には、「八万の法蔵を知る愚者」のご教導を誤解し、
仏教の学問は信仰の妨げになると思ったり、聴聞しても忘れるのを手柄のように吹聴する人さえあります。
「一文不知の尼入道でいいのだ」と得手に聞いているのでしょう。
しかし尊い教えを知らぬより、知っているほうがいいのは言うまでもありません。
仏教を学ぶことは、親鸞聖人や蓮如上人の直のご説法を親しく聴聞するのと同じ。
高僧知識方は一人として学問を軽んじた方はありませんし、尊い教えを学ぶご縁です。
“一文不知”では、もったいない。大いに教えの理解を深めましょう。
後半に続きます。
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