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暮れゆく人生を安心して生き抜く|「墓じまい」と真実の仏法(前)

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カテゴリー:1から分かる浄土真宗 タグ: 更新日:2025/02/12
 

忘れていませんか?墓や遺骨より大事なこと

墓じまいとは故郷にある墓を撤去し、遺骨を永代供養の合葬墓などに移すことをいいます。
 

理由はさまざまで
 

  • 少子化で子供がいない
  • いても女の子では跡を継いでもらえない
  • 跡継ぎはいるけれど遠方に住んでいる

などです。
だから自分が死んだら誰も先祖代々の墓を管理する者がいないということです。
 
墓の撤去といったら、遺骨を取り出して墓を解体し、更地に戻すだけのことと思いますが、そこに至るまでの過程が実は大変で、多くの人がどうすればいいか悩んでいます。
 
具体的には寺院の墓の場合、二百万円もの高額な金額を要求されるケースがあります。
また古い墓の管理者からの「改葬許可申請書」、遺骨を移す先の霊園の「受入証明書」などを用意し、自治体への手続きが要ります。
 
こうした金銭面での負担や手続きの面倒さに加え、親族が先祖の墓をなくすことに反対し、不義理を責められるなど精神的苦痛を味わうことも多いようです。
 
この「墓」の話題を通して私たちの心の根底にある「迷い」について考えてみましょう。
親鸞聖人のみ教えから振り返ってみたいと思います。

墓に行けば肉親に会える?

私たちは死んだ後、本当に墓の下に入るのでしょうか。
 
墓に遺骨を納め、毎年遠くから墓前までやってきて、頭を下げたり線香を供えるのは、墓へ行けば懐かしい人に会えると思うからでしょう。
 
大切な人がそこにいないのなら、わざわざやってくる意味もなくなります。
このような 「墓や遺骨に死者の魂が宿っている」という日本人に一般的な思想は、古代神道や儒教や道教などが入り交じって形づくられたものといわれています。
 
亡くなった肉親をしのび、懐かしむ心情は人として当然ですが、果たして「遺骨=肉親」なのでしょうか。
 
「世界の光」と称賛される親鸞聖人 「私が死ねば 屍を賀茂川に捨てて 魚に食べさせよ」と 衝撃的なことを仰っています。

「『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々」(改邪鈔)

川へ捨てれば墓に納める骨も残りませんから、墓や遺骨を全く問題にされていないことが分かります。
良識ある人ほど「何てことを!」と驚く聖人の発言は、私たちに何を教えんとされているのでしょう。

肉体も脳も すべては「私」の持ち物

そもそも、私とはどこにいるのでしょう。
「これが私です」と指さしているのは私の「体」です。
 
私たちの家や車、時計や指輪などは、私たちの「持ち物」であるように、自分の肉体、すなわち心臓や肺、胃腸なども、やはり自分の所有物であって私そのものではないと仏教では教えられます。
 
同じように骨もその人の持ち物であって その人自身ではないのです。
 
ですから、いかに慣習とはいえ
骨に特別な意味を持たせ、遺骨の取り扱い如何で死んだ人の後生が左右されるように思ったり、礼拝供養の対象にするのは、昿劫流転の真実の自己を知らないところからくる迷いと、仏教では教えられるのです。
 
「脳が私だから 死んで脳が消滅すれば無になる」
というのは唯物論者の主張ですが、世界的に著名な脳外科医ペンフィールドは、「唯物論」の立場で脳の研究に生涯をささげた末、「脳と私とは別だと考えるほうが 合理的だ」という結論に達しています。
 

「心の働きはすべて脳の仕組みに帰するという十分な証拠はない。私は人間は二つの基本要素から成ると考えたほうが 一つの基本要素から成ると考えるよりも理解しやすいと結論する」
(『脳と心の正体』)

ペンフィールドは、古くなった車を乗り換えるように「私」は数え切れないほどの脳を乗り換えてきたのだろうと推測しています。
 
私たちの肉体は八十年か百年の「借り物」ですが「真の私」は肉体が滅びたあとも永遠に続くのです。

死出の旅路に連れはない

平生は「死んだら無だ」と主張している人でも、肉親や友人などの告別式になると、途端に態度を変え、「冥福を祈ります」とか「ご霊前で謹んで申し上げます」などと述べるようになります。
 
死んで何もなくなるのであれば、「冥土の幸福(冥福)」も 「霊の前(霊前)」もありえないはず。
 
単なる周囲への配慮というだけでは済まされない、何か神妙なものがそこにはあります。
それは一片の知性や理屈で死後の世界を否定してみせても、本心では死後の実存を否定し切れないでいるからでしょう。
 
生まれた時が「人生列車」に乗った時。
駅に着くたび出会いがあり、別れもあり、しばらく車内で一緒に過ごせても、降りた先は一人一人が別々の道を歩まねばなりません。

独り生まれ 独り死ぬ
独り来て 独り去る(大無量寿経)

親や兄弟、子供たちとスクラム組んでの人生行路をしばらく楽しめても、死出の旅路に連れはないと、お釈迦さまは説かれています。
 
「独り来て 独り死にゆく 旅なれば つれてもゆかず つれられもせず」
の古歌のとおり、好きな人とも相添えず、嫌いな人とケンカもできない。
墓石の下に遺骨を並べてみても、先祖の霊が行儀よく納まっているものではないと、お釈迦さまは教えられているのです。
 
後半に続きます。

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あさだ よしあき

ブログ作成のお手伝いをしています「あさだよしあき」です。 東京大学在学中、稲盛和夫さんの本をきっかけに、仏教を学ぶようになりました。 20年以上学んできたことを、年間200回以上、仏教講座でわかりやすく伝えています。
 
   

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