親鸞聖人が教える
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親鸞聖人と 真の先祖供養
亡くして初めて知るのが親の恩といわれます。
生前は分からずとも、親を失った時、
「もっと大切にしておけばよかった」と後悔が起きるもの。
その気持ちは伴侶や愛児に対しても同様です。
墓に布団も着せられず、遺骨にごちそうも食べさせられず、葬式や法事を勤めることで、それらの人の恩に報い、このやりきれぬ気持ちを静めたいと思われる人も多いでしょう。
人一倍孝心の厚かった親鸞聖人は、亡き家族の供養について、どのように教えられているか、お聞きします。
親鸞聖人の意外な「告白」
幼くしてご両親と悲しい別れを経験された親鸞聖人は、深く父母の恩を感じておられました。しかし、その聖人が有名な『歎異抄』で
「親鸞は、亡き両親の孝養に、一回の念仏も、一巻のお経も読んだことがない」
と意外なことを仰っています。
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したること未だ候わず」
(歎異抄五章)
死者に対し、念仏も称えられず、その他一切の仏事儀礼も行われなかった告白です。
なぜでしょうか。
根本の理由は、「先祖供養できるような親鸞ではない」と、ご自身の姿をハッキリと知らされたからです。
仏教を説かれたお釈迦さまは、
「仏教は法鏡である」
と仰いました。
「法」とは、三世十方を貫く真実をいいます。いつでも、どこでも変わらない、本当の私を映す鏡のようなものが仏教です。
お釈迦さまは法鏡に映る万人の姿を、
「心も口も身も、やっているのは常に悪ばかり。いまだかつて一つの善もしたことがない」
と『大無量寿経』に道破されています。
心常念悪|心常に悪を念じ
口常言悪|口常に悪を言い
身常行悪|身常に悪を行い
曽無一善|曽て一善無し
これは閣僚もオリンピック選手も、警察官も学校の先生にも共通する、古今東西変わらぬ人類の真相である、と説かれています。
こう聞けば、「そんな無茶な」とあきれる人ばかりでしょう。
誰もが悪人なら、警察官が窃盗犯を取り締まることも、裁判官が放火魔に判決を下すこともできないからです。
時代劇や刑事ドラマは、勧善懲悪の爽快感がウケるのであって、双方が悪ならば芝居になりません。
では、果たして「悪人」は犯罪者や悪代官だけなのでしょうか。
「私」は善人か悪人か
大正時代の有名な布教使・西村法剣にこんな話があります。
◆◆◆
ある寺で、説法していた時のこと。
大の仏法嫌いの小学校長が、参詣した。
「仏教は、すべての人は悪人と説くから気に入らぬ。有名な坊主が来るなら、懲らしめてやろう」
との腹である。
そうとは知らぬ法剣はいつものように、
「仏さまの眼から、ごらんになれば、善人は一人もいない。皆、悪人なのです」
と力説する。
説法後、控室を訪ねた校長は、
「あなたは今、人間はすべて悪人と説かれたが、まことに困る。そんなことを認めたら、教師も皆悪人になり、教育が成り立たんじゃないか」
と、カンカンになって抗議した。
すると法剣、即座に土下座して謝る。
「いやー、これは、あなたのような方がお参りとはつゆ知らず、とんでもないことを申し上げました。何とぞお許しください」
あまりの意外な反応に、校長は薄気味悪くなってきた。
なにしろ大正の一休とまでいわれ、歯にきぬ着せぬ物言いをする法剣が、ただただ謝り果てている。
「いやいやそこまでせんでも、あのような説教さえしてもらわねばよいのです」
そう言って校長は、早々に退散しかけ、
「じゃあ、私はこれで」
と靴を履き、玄関を出ようとした時、
「先生、ちょっとお待ちください」。
法剣が声をかけた。
「何か?」
「先ほど、この世には善人もいれば悪人もいると言われましたな」
「はい、そう申しました」
「では校長先生、あなたご自身は、その善人でいらっしゃいますか。それとも悪人でしょうか」
答えにくい質問をする。
今更、悪人とは言えない。
さりとて、善人と答えるのもはばかられる。
校長が返答に窮していると、
「他人のことではなく、あなた自身のこと。なぜ答えられんのですか。では質問を変えましょう。あなたは学校で、うそは善だと教えられますか。悪だと教えておられますか」
「もちろん、うそは泥棒の始まり。悪いことだと教えています」
「では先生は、これまでにうそをつかれたことはありませんか」
校長ならずとも、誰にも身に覚えのあること。
「では、けんかはどうですか。善悪、いずれと教えられますか」
「悪に決まっています」
「では、先生は夫婦げんかされたことは、一度もないのでしょうか」
これまた日常茶飯事。
「生き物を殺すことは、いかがでしょう。子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」
「言うまでもない。悪だと教えます」
「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられませんか。また、肉や魚は食べられないのですか」
「そ、それは……」
まごつく校長に法剣は、
「うそもけんかも殺生も、皆、悪だと知りつつ、毎日それを繰り返しているのではありませんか」
日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ指摘されるうちに、さすがの校長も反省の心が起きてきた。
ついには玄関に座り込み、
「先ほどは失礼なことを申し上げました。よくよく振り返れば、自覚なしにどれだけの悪を造っていることでしょう。ご無礼をお許しください」。
それ以来、熱心に仏法を聞くようになったという。
◆◆◆
肉眼や虫眼鏡で見ればきれいな手のひらも、電子顕微鏡で観察すれば雑菌だらけ。
見た人は素手でおにぎりを食べられなくなるそうです。
そのように、法律や倫理・道徳からは善人に見えても、ごまかしのきかない仏教の顕微鏡で精査すれば、人間は皆おびただしい悪の塊です。
親鸞聖人は法鏡に照破され、
「どんな善もできない、地獄行き間違いない私であった」
と告白されています。
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 (歎異抄)
自分にできないことをできると思うのは、邪見であり、うぬぼれといわれます。
聖人は、やった善を亡者に差し向ける「追善供養」ができると思うのは、悪しかできない自己の姿が分からず、「善ができる」とうぬぼれているからだ、と仰っているのです。
真の孝養とは
では、私たちに孝養はできないのでしょうか。
親鸞聖人は真の孝養について、至るところに教えられていますが、今は『正信偈』で示しましょう。
「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」
(一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて、妙果を証せしむ)
「弘誓」とは、「善のかけらもない全人類を、そのまま救う」という阿弥陀仏の弘い誓いです。
それを『教行信証』の冒頭では、
「難思の弘誓は難度の海を度する大船」
と、苦しみの人生を明るく渡す大きな船に例えられています。
これを聖人は「大悲の願船」とも仰っています。
「値う」とは、過去から未来にわたって、一度しかない、あい方をいいます。大悲の願船に乗じたことです。
死ぬまで悪を造る極重の悪人が、大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福に救われたことを「一生造悪値弘誓」と言われています。
そして大悲の願船に乗った人は、来世は必ず阿弥陀仏の浄土(安養界)へ往って、弥陀と同じ仏のさとり(妙果)を開かせていただくことができると、「至安養界証妙果」と教示されているのです。
では、極重の悪人が幸せに救われることが、どうして亡き家族への孝養になるのでしょう。
歌舞伎のせりふに、
「三千世界に子を持った親の心はみな一つ」(『伽羅先代萩』)
とあります。
いつの世の親も、「幸せになれかし」と子に願い、わが子の笑顔には無条件で幸せを感じるもの。
亡き妻や夫も、残された家族の幸せを望んでいるに間違いありません。
肉親を失って初めて、「もっと孝行しておけばよかった」と嘆いている人も、今からでも仏法を聞き求め、弥陀の大悲の願船に乗せていただくことが、真の孝行であり恩返しになるのです。
大悲の願船に乗るには
「聞思して遅慮することなかれ」
と、聖人は明示されています。
聞く一つで大悲の願船に乗じて、無上の幸せに生かされる。
これが亡き家族の真の供養なのだよと、親鸞聖人は教示されているのです。
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