親鸞聖人と「浦島太郎」|あっという間に過ぎ去る人生(前)
今年が始まってどのくらい経つでしょう。
「月間カレンダーが日めくりのようだ」
とつぶやく声が聞こえてきます。
それほど、あっという間に過ぎ去ってしまうのが
人生なのだと蓮如上人は、
「この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」
人の一生はまるで夢幻のごとく儚いものだ、と仰っています。
そんな儚い人生を
私たちはどのように生きているのか。
その人間の本当の姿を描いているのが、誰もが親しんできたおとぎ話「浦島太郎」です。
子供の話と侮るなかれ。
ここには、親鸞聖人のみ教えを学ぶ私たちにとって大切なものが詰まっているのですから。
今回はその「浦島太郎」に学びましょう。
気づかなかった、浦島太郎の大矛盾
日本人なら誰でも、子供の頃に「浦島太郎」の話を聞いてきたでしょう。
漁師の浦島太郎が、浜へ漁に出掛けると、一匹の亀が大勢の子供たちに虐待されている。
かわいそうに思った浦島太郎は、再三再四、動物愛護を説くが、子供たちは一向に聞き入れない。
そこで彼は亀を買い取り、海へ放してやった。
亀は幾度も礼を言い、海中に姿を消した。
数日後、彼が舟を浮かべて漁をしていると、先日助けた亀がポッカリ浮かんだ。
「ご恩返しに、今日はよい所へご案内いたしましょう」
と、龍宮城へ連れて行かれた浦島太郎は、乙姫様に迎えられ、山海の珍味でもてなされ、限りない楽しみを味わった。
故郷に帰った浦島太郎が、乙姫様から贈られた玉手箱を開くと、モクモクと白煙が立ち昇り、たちまち白髪の老翁になってしまったという。
話を終えた父母や教師から、
「浦島太郎のような、慈悲深い、生き物をかわいがる心優しい人になりましょう」
と教えられたものです。
確かに、一切の生き物に慈悲をかけ、命を大切にする心は、子供たちに伝えていきたいものです。
ところが、浦島太郎の言動には大きな矛盾があることに、気づいているでしょうか。
一つの命を助けた“善人”の限界
子供たちに金を与えてまで、一匹の亀を助けた浦島太郎ですが、その肩に担がれていたのは、魚釣り竿。彼は漁師なのです。
その釣り竿で彼はこれまで何百何千の魚の命を奪ってきました。
もし浦島太郎が本当に一切の生命を愛する善人ならば、まず真っ先にすべきことは、己の釣り竿をたたき折ることでしょう。
これまで何百何千の殺生を平気でやりながら、たまたま一つの命を助けたからといって、いかにも慈悲深い善人だと思うのは、あまりにも早計です。
では、彼はその魚釣り竿を放棄することができるでしょうか。
釣り竿には彼の生活の全てがかかっています。
折ればたちまち生きていけなくなる。
ここに善人たらんとする浦島太郎の限界があるのです。
一つの命を助けることはできても、幾万の命を奪わずしては生きていけない。
これは一人、浦島太郎だけのことではなく、私たちすべての人間の実相とはいえないでしょうか。
生きるためには仕方がない?
約八百年前、関東でご布教なされていた親鸞聖人のお弟子の「入西房」は、元は日野左衛門という名の猟師でした。
彼は初め、大の仏法嫌いでしたが、親鸞聖人から真実の仏法をお聞きして大変わりしたのです。
親鸞聖人と出会い、「ただ今この世で絶対の幸福になれる」という阿弥陀仏の救いを初めて知らされた日野左衛門。
だが、首を横に振って、自嘲ぎみにこうつぶやく。
日野左衛門「しかしなあ。殺生ばかりしている俺なんかどうせ、縁なき衆生さ」
親鸞聖人「日野左衛門殿。あなたが殺生されるのは、肉を好んで食べる人が、いるからでござろう」
日野左衛門「そうだが」
親鸞聖人「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です」
殺生とは文字どおり、生き物を殺すことです。
私たちは動物を食べるのを当たり前に思っていますが、食べられる動物たちは決して、人間のための命とも、当然の犠牲とも思っていないでしょう。
どんな生き物も死にたくないのは私たちと同じ。
船上の魚がピチピチはねるのも、鶏が首を絞められバタバタもがくのも苦しいから、死にたくないからです。
『進撃の巨人』(諫山創・作)というマンガには、突如として現れ、圧倒的な力で人間を捕らえて食い殺す巨人と、人類との戦いが描かれています。
何とムゴイ、不条理な、と思わず顔を背けたくなりますが、目を転ずれば、動物の肉を喜んで食べている自分の姿と重なるのです。
すべての人の例外ない種まき
仏教では「全ての生命は平等であり、上下はない」と教えられています。
「生きるためには仕方がない」と人間の命だけを尊しとするのは、人間の勝手な言い分であり、殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。
その殺生に「自殺」「他殺」「随喜同業」の三とおりある、と仏教では教えられます。
初めの「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。
自ら命を絶つという一般的な意味とは違います。
浦島太郎や日野左衛門が、食べるために魚や鳥、獣を殺すのは、この自殺です。
次に「他殺」とは、他人に命じて殺させることをいいます。
自分で直接手にかけなくても、自分で殺したのと同罪になると教えられているのです。
「随喜同業」は、他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪ということ。
肉や魚の料理に舌鼓を打つのは、「他殺」であり、「随喜同業」の罪を造っている姿です。
この三つがいずれも当てはまらないと言える人はないでしょう。
“私は肉を食べません”と言う菜食主義の人も、その野菜を作るために多くの虫を駆除していることを承知しているでしょうか。
たとえ生き物の肉を一切食べなかったとしても、蚊に刺されれば思わずパチンとたたき潰す。道を歩けば、どれほどの生物が靴の下敷きになっているでしょう。
いかに慎んでも、殺生と無関係な人はありません。
自覚しようと、しまいと、すべての人が免れることのできない罪なのです。
「蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな」 (俳人・高浜虚子)
蜘蛛が巣を張り、引っかかった獲物を捕らえる。
残虐だといわれることもあるけれど、蜘蛛に生まれたからには、そうして網をかけてエサを捕まえなければ生きてはいけないのだ。
人間もまるで同じ。
おびただしい殺生をせずしては生きられない、深い業を持っているのです。
親鸞聖人「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です」
日野左衛門「えっ?それじゃあみんな、殺生していることになるじゃないか」
親鸞聖人「いかにも。殺生せずしては、生きてゆけない。私たちの、どうにもならぬ、恐ろしい業なのです」
日野左衛門「そのとおりだ」
親鸞聖人「すべての人が、どうにもならぬ極悪人だからこそ、阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると誓っておられるのです」
どうにもならぬ罪を抱える私たちを、必ず救ってみせると誓われた阿弥陀如来とは、どんな仏さまなのでしょう。
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