幸せの扉は”本当の「私」”を知れば開く|仏教は自分を映す鏡
他人の意見に振り回されていませんか?
私が私を正しく見られるのでしょうか?
世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまが仏教に説かれたことは、「どんな人でも本当の幸せになる道」一つでした。
そのお釈迦さまは、仏教とは、一言でいえば「法鏡」であると仰っています。
「法鏡」とは、本当の私の姿を映す鏡ということですが、それはどんなことでしょう。
自己を知ることが本当の幸福のカギ
スポーツも受験も就職も自分の実力を知らねば勝利は期待できません。
かの有名な孫子の兵法に、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」との名言がありますが、「自己を知る」は、何事においても重要な一歩です。
哲学発祥の地、ギリシャの神殿には「汝自身を知れ」と刻まれています。
「私とはなんぞや?」の問いこそ、何千年も前から人類が知りたいと思ってきたことなのです。
私が幸せになるには、その「私自身」を知らねばなりませんから、人間の「幸福」を真正面から探求する哲学とは「人間自身」の探求にほかなりません。
エジプトのスフィンクスが、「始めは4本足、中頃は2本足、終わりに3本足となる動物は何か?」と砂漠の旅人に問いかけ、答えられないものを食い殺したという伝説があります。
ハイハイから二足歩行を覚え、晩年杖に頼る一生を例えたこの謎かけは、自己を知らぬ私たちに警鐘を鳴らしたものでしょう。
お釈迦さまがお亡くなりになる時、「我は汝らに法鏡を授けるであろう」と仰ったのは「私自身を知る」ことが本当の幸せの扉を開くカギであり、それが、仏教の教えであるという表明です。
「仏道を習うは自己を習うなり」
仏教を聞き、本当の自分の姿が知らされた時、私たちは「本当の幸せ」になれるのです。
仏教に説かれた本当の私とは?
「知るとのみ 思いながらに 何よりも、知られぬものは 己なりけり」
誰でも、自分のことは自分がいちばんよく知っていると思っています。
しかし「私」とは、近すぎてかえって見えないもの。
「目、目を見ることあたわず」と言われるように、どんなに視力のいい人でも、自分の目で、自分の顔や目そのものを見ることはできません。
そこで必要になるのが鏡というものです。
お釈迦さまは、世に「私」を映す3通りの鏡があると説かれています。
それはどんな鏡でしょうか。
(1)他人鏡 他人の評価によって知る自分の姿
私たちは、どんな時でも他人からどう見られているか、その「評価」が気になります。
他人の評価によって私の「幸福」が決まると思って生きる私たちは、「他人の鏡に映った自己がどんなものか」に日々神経をとがらせて生活しているとさえいえましょう。
「インスタ映え」
多くの人が見栄えのいい写真を撮って、すぐにスマホで友達に見せています。
本来、友達同士で楽しみを分け合うはずの行為が写真写りばかりに気を取られ、逆に憂鬱になると悩む人は多いようです。
「いいね!」と言ってくれる人数が気になり、最近はそのボタンをたくさん押してくれるサービスをお金で買える「いいね!自動販売機」になるものさえもある。
仕事をしていれば
”今日のネクタイ、昨日と同じじゃだめだよね”と朝からあれこれ思い悩む。
足元を見透かされないように靴を磨き、ツメが甘いと言われないよう、大事なお客さんに会う前には爪を切り、10分前には洗面所で歯を磨く。
もちろん、ブレスケアガム、デオドラントスプレーの携行は必須。
「人は見た目が9割」などとあおられると、昇進も外見一つで決まるとばかり、上司にも顧客にも「よく見られたい」と必死です。
昼休みも気は休まらない。
同僚や後輩と「うな重」でも食べに行こうものならさらにつらい選択が課せられます。
先に注文した2人が、威勢よく「松!」とくれば、自分だけ「梅」と言えず、出費を思って震える声で「オレも松!」と叫んだものの、味も分からず店を出る。
冠婚葬祭に包む金額に気を遣い
新年のお年玉もまた試練。
親戚の子がその場で開けて、「え、今どき3000円」などと言おうものなら、心でその子をたたきつけている。
年始早々、心穏やかではいられない。
教育現場では、親の目を気にして、先生や保育士が、へとへとになる。
学芸会や運動会の時期ともなれば大変。
『花咲かじいさん』の劇で、せっかく出てきたわが子が「木」の役だったら親はどう思うか。
最近はすべての子が役からあぶれないよう、主役も意地悪じいさんも何人もで演じるそうな。
もちろん、他人の目を気にするのは大事なことですが「私の幸福」まで「他人の評価」が決めるのでしょうか。
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも ウソの世の中」
と一休が嗤っているように
人は私を「都合」によって評価するのですから、他人の評価など、都合次第でコロリと変わります。
昨年3000円のお年玉で「ケチなおっちゃん」とレッテル貼られたおじさんも、今年1万円渡せば「いいおじちゃん」に早変わり。
みんな自分にとって都合のいい人が「いい人」なのです。
しかし、「ブタは褒められてもブタ」
「ライオンはそしられてもライオン」
クルクル変わる人の評価が、私の真価を表すはずがありません。
「悪口を言われても気にする必要がない。どうせ、もうすぐ皆死ぬのだから」
『徒然草』の吉田兼好が書いたそんな忠告で、とっても気が楽になったという人がたくさんいます。
いかに、人間関係で皆、疲れ果てていることか、傷を受けている人がいかに多いことでしょう。
「過去にも、今にも、未来にも
皆にて謗る人もなく
皆にて、褒める人もなし」(法句経)
お釈迦さまは「他人の評価に幻惑されず、真実の自己を見なさいよ」と教えられています。
(2)自分鏡 自己反省によって知る自己の鏡
有名出版社「三省堂」の由来は「われ日にわが身を三たび顧みる」からきているそうです。
人間には道徳的良心があり、それを鏡として反省する動物とも評価されていますが、その「良心」は、正しく自己を映しているのでしょうか。
「この玉の色を見分けた者にご褒美を与えます」
乙姫さんが魚たちに尋ねる、黒鯛は”黒です”、サバは”青色”、カレイは”薄茶色”と、皆、答えが異なった。
「どれが本当の色ですか」
声をそろえて乙姫に尋ねると、「玉は無色透明、皆さんの色が映っただけですよ」と乙姫さんは笑ったという。
自分の考えや感情の色を全て抜き取って、私たちは何も見られないのではないでしょうか。
なぜなら、私たちは「慢心」の色メガネを死ぬまで外せないからです。
「慢心」とは「自惚れ心」
「自分に惚れて」自分を見ているのですから、アバタもエクボは当然で死ぬまで私たちは、自分も毛頭悪く見られないのです。
慢心は絶対外せぬ色メガネだよ、とお釈迦さまは仰います。
こんな私たちは、死ぬまで自分の姿を正しく見ることはできません。
では自己の姿を正しく知るには、どうすればよいのでしょうか。
お釈迦さまは、仏教を聞きなさいと教えられています。
仏教とは法の鏡だから、真剣に仏教を聞けば自分の姿がハッキリ知らされてくるのです。
(3)法鏡 真実の自己の姿を映し出す鏡
仏教は法鏡なり。
その法鏡とはどんな意味でしょうか。
仏教で「法」とは、三世十方を貫く(いつでもどこでも間違いがない。普遍である)ものです。
国や時代に左右されない、本当の人間の姿をお釈迦さまが説かれた教えが仏教ですから、その仏教を聞いて、真実の自己と対面した時、私たちは「真実の幸せ」になれるのです。
自己を知ることは、本当の幸せの扉を開くたった一つのカギといえましょう。
では、仏教に教えられている人間の真実の姿とは、どのようなものでしょうか。
こちらの記事で解説しています。
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