『歎異抄』の謎を解く|なぜ「善人」よりも「悪人」なのか
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
日本でも高校の歴史教科書で取り上げられ、
テレビの人気ドラマ『相棒』(テレビ朝日系列)では300回記念のタイトルに「いわんや悪人をや」とありました。
時や所を超え、多くの人々を引き付けるこのお言葉について、お話ししたいと思います。
「悪人」こそが助かるってどんなこと?
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや(歎異抄第3章)
善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや、悪人は、なおさらだ
「悪人でさえ浄土へ往けるのだから、善人なら、なおさらだ」というのならナットク、という人は多いでしょうが、親鸞聖人はここで「悪人こそが助かるのだ」と全く逆のことを教えられています。
なぜでしょうか。
それについて解説する前に、まず「善人」「悪人」について考えさせる、こんな、逸話を紹介しましょう。
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内輪ゲンカの絶えないA家の隣に、平和そのもののB家があった。
A家の主人は、隣はどうして仲良くやっているのか不思議でたまらず、ある日B家を訪ね、“一家和楽の方法があったら、どうか教えていただきたい”と懇願した。
「別にこれといった秘訣などありません。ただお宅さまは、善人さまばかりお集まりだからでしょう。私の家は悪人ばかりで、ケンカにはならないのです。ただそれだけのことです」
B家の主人のこの一言に、皮肉られたと思ったA家の主人が抗議しようとした時、
B家の奥で、皿か茶碗でも割ったような大きな音がした。
「お母さん、申し訳ありませんでした。私が足元を確かめずにいましたので、大事なお茶碗を壊してしまいました。私が悪うございました」
心から詫びているお嫁さんの声と、「いやいや、先ほどから始末しようと思いながら横着して、そんなところに置いた私が悪かったのです。済まんことをしました」という姑さんの声が聞こえてきた。
「なるほど、この家の人たちはみんな悪人ばかりだ。ケンカにならぬ理由が分かった」
A家の主人は感心して帰ったという。
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仏教では、本当の幸福になるには、自己の姿を正しく知ることが大切だ、と教えられています。
進学や就職でも、自分の本当にやりたいことや適正、能力などを知らないと進路は決められません。
「世界で最大のことは、自己を知ることである」とモンテーニュ(フランスの哲学者)が言うように、人間のあらゆる営みの中心に“自分とはなんぞや”の問いがあります。
私自身を知らなければ、その私が本当の幸せになれる道理がないのです。
最も不可解な「自分」
私たちは自分のことは自分がいちばん知っている、と思いがちですが、実は最も分からないのが自分ではないでしょうか。
隣家の障子が穴だらけで、少しも張り替える気配がないのを、“隣は何とだらしないんじゃ”ととがめている祖母に孫が言いました。
「ちょっと、おばあちゃん、どこから覗いて言っているの?」
見れば、自分の家の障子こそ破れた穴だらけで、その穴から隣を眺めていたのです。
かつては自分も同じ穴のムジナだったのに、他人の不祥事を厳しく責め立てている人はネット上で「おまいう(お前が言うな)」と冷笑されます。
人の粗はよく見えても、自分の姿を知るのは至難のこと。
どんなに遠くまで見える目でも、その目自体を見ることができないように、自分というものは近すぎて見えないのです。
近すぎるものを見るには鏡が必要です。
その私の姿をありのままに映し出す鏡(法鏡)が仏教なのです。
「悪をするほど浄土へ往ける⁉」は大まちがい
では法鏡に映し出された人間とはどんなものなのでしょう。
それを『歎異抄』では「悪人」と説かれ、その悪人こそが浄土へ往けるのだと教えられているのです。
ところがそう聞いて、「悪をするほど、浄土へ往けるのか」と誤解し、好んで悪を行うようになった人たちがいました。
それで親鸞聖人の教えを「悪人製造の教え」と批判する人たちまで現れました。
これは今日も多くある『歎異抄』の根深い誤りです。
これを正すには、親鸞聖人の「悪人」「善人」の真意を明らかにする以外にありません。
「善人」や「悪人」と聞くと私たちは、常識や法律、倫理・道徳を基準にして判断します。
「悪人」と聞いてまず想起するのは、法律を破った犯罪者でしょう。
近所の子供を誘拐して殺害したとか、高齢者をだまして高額を奪ったなどと聞けば、文句なしに「悪人」のレッテルが貼られます。
また、道徳、倫理的な悪人もありましょう。
平気でタバコのポイ捨てをする人、大音量で音楽を聴く近所迷惑な人、口さえ開けば他人の悪口ばかりで周囲を悩ませる人もいる。
警察に捕まるほどではないけれど「感じ悪い」「困った人」と言われる「悪人」です。
あるマルクス主義者は「善人よりも悪人」と聞いて、「なるほど親鸞聖人はスゴイ。資本家よりも、”彼らに搾取されて苦しんでいる社会的弱者労働者”のほうが革命によって救われると見抜かれたのか」と感嘆したそうです。
「悪人」=「すべての人間」
しかし、親鸞聖人が『歎異抄』で「悪人」と仰るのは、そんな法律、倫理・道徳上の「悪人」や社会的に虐げられている人だけのことではありません。
「すべての人間」のことです。
つまり親鸞聖人の言われる「悪人」とは、人間の代名詞なのです。
なぜ親鸞聖人はすべての人間を悪人と仰ったのか。
それはどんな人間も苦しんでいるからです。
貧富の差や能力、財産、名誉、地位の有無などと関係なく、人は皆、苦しみの中で生きています。
子供の頃から「城のような家に住みたい」と夢を抱いて仕事に奮闘し、ついにプール付きの豪邸を建てた人が、しみじみ、語りました。
「設計図を決める作業は至福でしたが、いざ入居すると、3日目にはもうイヤになりました。何より掃除が大変で、維持管理費もバカにならない。決め手は東日本大震災の時、広いリビングで不気味に揺れる巨大なシャングリラの下、私にはそもそもこんな豪邸は必要なかったと気づいたのです」
日本では、年収800万円までは幸福度が上がっていきますが、それ以上になると、幸福度は上がらなくなるという結果が報告されています。
衣食住がある程度満たされると、後はどんなに働いても幸福感は増さず、かえって忙しさが増して苦しみになることもあるのです。
私たちは望むものが手に入れば幸せになれる、と思っていますが、根本的には、有っても無くても苦しんでいることに変わりがありません。
お釈迦さまはこれを「有無同然(有無同じく然り)」と仰っています。
人生の本質は苦しみなのですが、今はさほど深刻に苦しんでいない人もありましょう。
そんな人は、かりそめの幸せに溺れ、阿弥陀仏に生死の一大事を打ちまかせる心がないのです。
親鸞聖人が冒頭のお言葉で「善人」と言われているのは、そんな人のことです。
しかしそういう人も、仏教を聞いて自己が知らされれば、”自分こそ苦悩の人、悪人であった”と気づくことでしょう。
仏教を聞くとは人間の真実の相を聞くこと
「すべての人が悪人」とは、仏さまの眼に映る人間の真実の相を教えられたものです。
仏教を聞く、とはその人間の真実の相を聞くことであり、「苦悩に沈むすべての人を、必ず浄土に生まれる身(絶対の幸福)に救う」と誓われた、本師本仏の阿弥陀仏の本願を聞くということです。
それが本当の幸福になる道であると教えられています。
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