蓮如上人と白骨の章 書かれた経緯
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し……」
延徳元年8月、蓮如上人75歳。上人は有名な「白骨の御文」をお書きになった。どんな経緯があって、書かれることになったのでしょうか。
蓮如上人と海老名五郎左衛門とのやりとり
「蓮如上人さま、ありがとうございました。わが身に迫る無常が、深く心にしみ入ります」
「青木殿のことは、まことに悲しい出来事であった」
「まことに……」
青木殿とは、山科本願寺の近くの安祥寺村にいた青木民部という下級武士のことである。
*山科本願寺……現在の京都市山科区にあった聞法道場
海老名五郎左衛門と青木民部
「おう、民部よ。わしが戦に行っている間に、そなたの娘は何と美しく育ったものか」
「ははは、自慢の一人娘じゃ」
「いや、その優しさといい、評判どおりじゃのう、幾つになった?」
「清女も十七歳じゃ。実は、有力な武家から縁談を持ちかけられておる」
「何と惜しい。わしがもう少し若ければ、嫁にもらうところを」
「はははは、五郎なんぞにはやりはせんぞ」
やがて縁談が調い、挙式は8月11日に決まった。
しかし、民部は、下級武士ゆえ経済的な蓄えがない。
「致し方ない。先祖伝来の武具・馬具を売り払うよりない」
「そんな簡単に手離せるものか、戦の時は、どうするのじゃ?」
「いやいや、大事な娘の嫁入りじゃ、立派な衣装や道具を調えてやらねばのう」
「民部…」
ついに迎えた婚儀の日
青木民部の家では朝から両親は、お祝いに来た近隣の人々に衣装などを見せて喜んでいた。
ところが──
「うっ……」
「ど、どうした急に、清女!」
「う……う……」
「あなた、ど、どうしましょう」
「大変だ、たのむ、医者をたのむ」
「医者は隣村に行かねばおらぬぞ!わしが連れて来る間に、薬を!」
「清女、清女」
「清女ー!」
周囲の人々が、慌てふためくうちに、娘は息絶えてしまった。
「こんな、こんなことがあっていいのか!」
「うそよ、悪夢よ!こんなの信じないわ!」
「目を開けておくれ、清女、ああ!」
民部夫婦は半狂乱になって慟哭したが、氷のごとく冷たくなった亡骸をいかんともする術がなかった。隣近所の人たちが手伝って、その夜のうちに野辺送りし、翌12日、骨を拾って帰った。
「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿か……お、おおお……」
民部は、嗚咽のまま、息絶えてしまった。51歳であった
その場にいた人々の驚きは、例えようがなかった。だが、そのままにもしておけない。娘と同じ火葬場で、荼毘に付された。
「清女……、あなた……、私一人を残して……、一体どうしたというの」
後に一人残った民部の妻は、ただ悲嘆に暮れていたが、翌13日、愁い死にしてしまった。
37歳の若さであった。
青木民部の近所の人たち
「何ということだ。数日の間に、一家三人が亡くなってしまった……」
「何と人の命とは、はかなきことか……」
「戦場よりも激しき無常だ」
「この家はもう、住む者がいなくなった。誰が引き取るかのぉ」
「青木家の家財一切は、亡くなった三人が信奉していた、山科本願寺の蓮如さまに寄進するのがよいと思うが」
「うむ、それがよい」
「そうしよう」
蓮如上人
青木家の不幸をお聞きになり、大変哀れに感じられ、落涙されること、しばしであったという。
「何ということだ……、これを縁に、世の無常について文(手紙)に表そう」
ところが、続いて8月15日
「なんと、海老名五郎左衛門殿の息女が急死したとな!」
海老名五郎左衛門とは、山科本願寺の聖地を財施した武士である。その娘も17歳だった。
青木民部一家に起きた突然の不幸、そして海老名五郎左衛門の十七歳の娘も無常の風に襲われた。
蓮如上人と海老名五郎左衛門とのやりとり
娘の葬儀を終えた五郎左衛門が、8月17日、山科に蓮如上人を訪ねてきた。
「海老名殿。こたびの事は、まことに……」
「蓮如上人さま。青木民部殿のこと、悲しきこととはいえ、他人事だと思っておりました。まさか、私の娘が……、ううう……」
「一体、どうした訳で?」
「はい、その日は、家族で行楽地へ出掛けることになっておりました。娘は、朝早くから髪を結い、美しく化粧をして……、そして大勢の供を連れて門前に出たところ……
「お父様、何だか胸が急に……」
「うん?ど、どうした」
「……」
「こ、これはいかん!家に引き返せ!医者だ!」
「そのまま容体はどんどん悪化し、昼頃には、もう息を引き取ってしまいました。」
「なんと……」
「蓮如上人さま。我々のごとき仏道懈怠の者に、何とぞ人の世の無常を表すお文をお書きくださいませ。お願いでございます。」
「うむ。青木殿のこともあり、考えていたところじゃ。すぐに筆を執ろう。」
こうして五郎左衛門に書き与えられたのが、「白骨の章」であった。
白骨の章
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、
おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を
失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
(意訳)
よく聞いてください。浮草のように不安な人生を、よくよく眺めてみれば、人の一生ほどはかないものはありません。生まれて大きくなり、やがて老いて死ぬ。まさに幻のような人生です。
いまだ千年、万年、生きたという人を、聞かないでしょう。人生長いようでも過ぎてしまえばアッという間の出来事。百歳まで生きる人はまれなのです。我や先、人や先、死ぬのは他人で、自分はまだまだ後だ、と思っているが、とんでもない間違いです。
覚如上人(かくにょしょうにん・親鸞聖人の曾孫)も仰せである。
「死の縁無量なり……病におかされて死する者もあり、剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火に焼けて死する者あり……」
今日とも明日とも知れぬ、私たちの命。雨の日、木の枝から滴り落ちる滴のように、毎日、多くの人が後生へ旅立っているではありませんか。
朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なのです。朝、元気に出掛けた者が、事故や災害、突然の病などで、変わり果てて帰することも珍しくないでしょう。ひとたび無常の風に誘われれば、どんな人も二度と目を開かなくなる。一息切れたら、顔面は血の気を失い、桃李の肌色はなくなってしまう。
「お願い、もう一度笑って!お願い、もう一度笑って!目を開けておくれ!」
肉親や親戚が集まってどんなに泣き、悲しんでも、二度と生き返ってはきません。
泣いてばかりもおれないから、火葬場に送って荼毘に付せば、一つまみの白骨が残るだけ……。死者を哀れんでいる者も、やがて同じ運命をたどるのです。
老いも若きも、関係なく、いつ死ぬか分からぬのが、人間というものです。どうか皆さん、早く後生の一大事の解決を求め、阿弥陀仏に救い摂られ、仏恩報謝の念仏する身になってもらいたい。
海老名五郎左衛門、また、その後、蓮如上人のお弟子たちも、このお文を拝読して感涙にむせんだ。そのほか、武家や公家にも広く伝わり、明日はなき無常の世を知らされ、山科本願寺へ聞法に訪れる人が多く現れたという。
この経緯は『御文来意鈔』に記されている。
(関連)白骨の章を詳しく解説
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