誤解された浄土真宗|「他力本願」と「自力」の正しい意味とは? (中級)
日本で一番多い宗派が浄土真宗です。
核家族化が進んだ現代社会では、祖父母や親から浄土真宗の教えを受け継ぐ機会が少なくなっており、浄土真宗の教えを誤解している人が多いようです。
浄土真宗と聞いて思い浮かぶ言葉の一つに「他力本願」があります。
「浄土真宗は他力本願の教えだから、他の力にすがらなければ生きてゆけないような無気力な教えだ。そんな教えは人のやる気をそぐものではないか」 という声も聞こえてきます。
ここで使われている他力本願は結論から申しますと誤った意味で使われています。誤解されているために、浄土真宗を敬遠してしまうのであれば非常に勿体ないことだなと思いますので、正しい意味をぜひ知っていただきたく思います。
他力本願の「他力」とは誰の力のこと?
他力といえば、一般的には「自分以外のものの力、他人の力」という意味で理解されています。
新聞にも「他力本願から抜け出そう」という広告が出されたことがあり、他力本願を「他人に依存する」という意味で使っています。
「他の力」と書く「他」を文字通りに自分以外と解釈して、他人や自然というように捉えているからでしょうが、他力は仏教から出た言葉であり、本来の指しているものとは全く違います。
それを浄土真宗の祖師である親鸞聖人(しんらんしょうにん)はこう教えられています。
他力と言うは如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)なり
(教行信証:きょうぎょうしんしょう)
他力の「他」とは「如来」のことですが、浄土真宗では阿弥陀如来 (あみだにょらい) のことに限ります。
阿弥陀如来は「どんな人も必ず本当の幸せに救う」というお約束をなされています。これを阿弥陀如来の本願(ほんがん)と言い、私たちを本当の幸せに救ってくださるお力を、ここで「如来の本願力」と言われています。
他力とは、阿弥陀如来が私たちを本当の幸せに救ってくださるお力のみを言うのです。
誤解された「自力」と、正しい意味とは
他力と対比して使われるのが「自力」です。
自分の力と書く「自力」は「自分ひとりの力」という意味で使われ、「遭難者が自力で帰って来た」とか「自力更生でなければならぬ」と言います。
この自力も仏教が語源になっていますが「自分ひとりの力」という意味はどこにもありません。突拍子もないように聞こえるかもしれませんが、浄土真宗で自力とは、阿弥陀如来の本願を疑っている心のみを言います。
具体的にどんな心かというと、「どんな人も本当の幸せに救う」という阿弥陀如来のお約束を疑って、「本当に阿弥陀さまは存在するのだろうか?」「本当の幸せなんてあるのだろうか」「そんな幸せに、私がなれるのだろうか」「どうしたらなれるのだろうか」と計らっている心です。
阿弥陀如来の本願を疑っている自力が無くなると同時に、他力によって私たちは本当の幸せになれるので「早く自力を捨てて他力に帰せよ」と教えられるのが浄土真宗なのです。
親鸞聖人はそれを「捨自帰他(しゃじきた)」と教えられています。
では、どうすれば捨自帰他できるのかというと、仏教を聞く一つです。
これを真宗中興(ちゅうこう)の祖といわれる室町時代の蓮如上人(れんにょしょうにん)は
仏法(ぶっぽう)は聴聞(ちょうもん)に極(きわ)まる
(御一代記聞書:ごいちだいきききがき)
と言われ、真剣に仏教を聞くことを勧めておられます。
他力も自力も、私たちが本当の幸せになるために非常に大事な仏教用語ですから、正しい意味を知っていただきたいと思います。
(参考)
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