親鸞聖人の教えに照らされて知らない〝私〟が見えてくる(前)
介護で知らされる「悪人正機」の真の意味
親鸞聖人の教えといえば「悪人正機」。
あまりにも有名です。
「正機」とは「人間の正しい機ざま」の意であり 「本当の人間の相」ということですから「悪人正機」とは すべての人間は悪人であるということです。
その悪人こそが救われる教えが親鸞聖人の教えなのです。
“えっ? 私が悪人?”と最初は戸惑う人も多いでしょう。
悪人と聞けば、法律や倫理道徳に背いている人のことだと皆思っているからです。
前科もないし、周りからもいい人と言われている私のどこが悪人か、と。
ところが仏法を聞き、教えのとおりに光に向かっていくと、知らなかった自分に出会うことになる。
その時、聖人の仰る「悪人」の真の意味が知らされるのです。
私が出会う「私の知らない私」とはどんな相なのでしょう?
「私はすっきりした心の人間だと思っていましたが、仏教を勉強していくと私の心に染みついているイヤな根性を刻々と感じます。強い気性で他人を傷つける言葉を言い、いつも後悔するのです」
「私って何て嫌な人間だろう……」
「私の中にこんな醜い心があったのか」
と知らされハッと驚いた経験が、皆さんにもあるでしょうか。
仏法の教えに従って 真面目に光に向かう人ほど 欲・怒り・愚痴いっぱいの心が知らされます。
そして「こんな醜い心を抱える私は幸せになどなれないのではないか」という心境になるのです。
そんな人たちに親鸞聖人は「あきらめなくていいよ」とこう励まされています。
無明長夜(むみょうちょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
「かなしむな」「なげかざれ」のお言葉は、悲しんでも嘆いてもいない人にはピンとこないでしょう。
自分の心をよく見つめることがまず大切です。
今回は「介護問題」を通して、自己の「心」を見つめましょう。
母親を介護しているある女性の手記を紹介します。
「立派に母を介護してみせる」 しかし現実は──
私は五年前から仏教を学んでいる五十代の主婦です。
実家で認知症の母親を介護して二年になります。
夫と社会人の息子のいる自宅までは車で二時間弱ですが、今は週に一度戻るのがやっとの状態です。
母は若くして夫に先立たれ、女手一つで私を育ててくれました。
八十を過ぎても畑仕事に精を出し、病院とは無縁の生活でした。
それが二年前に外出先で転倒して骨折。
二カ月の入院生活を余儀なくされたのです。
以来 足腰は見る見る弱り、軽い認知症も出始めました。
退院後、実家で母を世話することに私は何の迷いもありませんでした。
永らく介護の仕事をしていたので知識もある。
「お母さんには今まで苦労をかけたもの。今度は私が世話する番よ」
と自信いっぱい 意気揚々と介護を始めたのです。
病気なのだから……頭では分かってるけど
ところが その自信はあっけなく打ち砕かれました。ある日、歩行訓練をしようとした時のことです。
私「さあ 今日も歩く練習をしよう」
母「足が痛いからイヤ!」
私「このままじゃ歩けなくなっちゃうよ」
母「じゃあ 歩けなくてもいい」
私「そんなワガママ言わないで ちゃんと練習しなくちゃだめ!やればできる!」
病気なのだから無理もないと頭では分かっているのに、いざ母を目の前にするときつい口調になってしまうのです。
母は料理上手だったのに得意な肉じゃがも作れなくなりました。
服を着るにもどこに手を通せばよいか分からず、一人で着替えができません。
家中は貼り紙だらけ。「このプラグ抜いちゃだめ」「このスイッチは押さないで」等々。
それでもテレビのプラグを抜いてしまい、抜いたことすら忘れて「テレビがつかない。壊れた 壊れた」と大騒ぎするのです。
日常の簡単なことすら次々とできなくなっていく母。
私は無力感に襲われました。仕事ならどんなにつらくても仕事と割り切れる。
しかし実の親の介護となると全く勝手が違いました。
〝早く楽になりたい……〟そう思うのは私だけ?
最近もこんなことがありました。買い物に出掛けている間に携帯の着信が三十回。
留守電にも「早く帰ってきて」と母の怒りの声。急いで帰宅し、すぐ夕食の支度をしました。
母はテレビばかり見ています。
ムッとした私はつい「箸ぐらい準備してよ!」。言ってから「しまった」と思っても手遅れです。
母は急に不機嫌になり、ベッドに潜り込んでしまいました。何度呼んでも起きてきません。
仕方なく独りで食べ、後片付けも終えた頃、母は起きてきて何事もなかったようにお菓子を食べ始めました。
もう私は怒る気力すら萎えてしまうのでした。
精神的に不安定だと母が夜中にわめいたり物を投げつけてくることも少なくありません。
「いい加減にして!」
私はいつしか手を上げるようにもなってしまいました。
もう嫌だこんな日々いつまで続くのだろう……。
お釈迦さまが『仏説父母恩重経』に親の恩の重いことを教えられているのに、私はそのお話をお聞きしているのに、母に対してひどいことを言い叩いてしまう。
私には親の恩に報いようという気持ちがないんだ。
自分が楽になることしか考えていない何てあさましいんだろう。
やってみて初めて知らされる
ふと以前に「仏教講座」に参加した時のノートを取り出しページをめくってみました。そこには
親鸞聖人の『末灯鈔』のお言葉がありました。
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」
(末灯鈔)
大恩ある親を殺すのは仏教で「五逆罪」といわれる重罪です。
だが手にかけて殺すばかりが親殺しではありません。
「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも五逆罪なのだよと親鸞聖人は教えられている。
また仏教では行為といっても身・口・心の三つの行為をいいますが中でも最も重く見られるのが心の行いです。
殺るよりも 劣らぬものは 思う罪
といわれるように最も恐ろしいのは「心で殺す罪」。
心で親を邪魔者扱いする五逆罪は「無間業」といわれる大変恐ろしい罪だと教えられているのです。
都合が悪くなると心で母を邪魔だなあと思う……。
これも五逆罪に間違いない。
そんな恐ろしいことを思い続けながら上辺はいかにも親の恩を感じているように取り繕っている。
誰にも言えぬこんな罪深い私はどうして救われようか。
私絶対幸せになんかなれない!
やってみて初めて知らされる己の心に恐れおののきました。
ところが親鸞聖人は
「そんな極悪人こそが阿弥陀仏の正客(お目当て)なのだよ」と仰るのです。
無明長夜(むみょうちょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
阿弥陀さまは苦悩の根元・無明の闇を必ず破ってくださるから決して悲しむことはない。
どんな悪人も苦しみの海から必ず大船に救いあげてくださるから罪の重さを嘆かなくていいんだよ。
希望の光を与えてくださった方はやはり親鸞さまでした。
後半に続きます。
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