親鸞聖人の長子・善鸞の邪義と日蓮の出現1
鎌倉幕府の弾圧
親鸞聖人の関東ご布教で仏縁を結んだ人々は、親鸞聖人が京都へ帰られた後も真摯に仏法を聞き求めていました。その親鸞学徒の力強さと法輪の広がりを危険視した鎌倉幕府は、やがて念仏停止の命を下します。
鎌倉幕府が、阿弥陀仏の本願を説く者、聞く者を制圧し始め、動揺は人々に波及していきました。幕府ににらまれては生きていけないと離れていく人、また「この先どのように仏法を求めたらよいか」と不安がる人々にどう真実を伝えればいいかと、関東のお弟子たちは頭を痛めました。
親鸞聖人の長子・善鸞(ぜんらん)は、親鸞聖人が京都へ移られた後関東に残りましたが、善鸞も思うままにならない布教の苦しい現実に次第に悩みを深め、迷い始めるのでした。やがて親鸞聖人が厳しく禁じられた権力者に近寄り、仏法を曲げるまでになっていくのです。
日蓮の出現
時同じくして関東に「『法華経』こそ真実の教え、『法華経』を信じないから不幸になる」と叫ぶ日蓮が現れました。うちわ太鼓をたたきながら彼は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と各地に触れ回ったのです。
これは、〝念仏を信じている者は無間地獄へ堕ちるぞ。禅宗は天の悪魔。真言宗は国をほろぼす。律宗は国賊だ〟という意味ですが、日蓮の造語でお経にはない言葉です。
逆に『観仏三昧経(かんぶつざんまいきょう)』には、お釈迦様が臨終間際のお父上に、念仏を勧めておられます。念仏を称えたら無間地獄に堕ちるのなら、お釈迦様が臨終のお父さんに地獄に堕ちるような念仏を勧められるはずがありません。
また、「南無阿弥陀仏」はお経にハッキリ説かれていますが、「南無妙法蓮華経」はどのお経にも出ておりません。
権力者の弾圧に加え、日蓮の「念仏無間」を繰り返し聞かされた人々は、最初は聞き流していたものの、次第に動揺し始めました。善鸞の住居を訪ね、不安な胸中を明かす者も出てきました。
「善鸞様、この頃、日蓮とかいう坊主が念仏は地獄へ堕つる業だと触れ回るやら、幕府からは一向専念の布教禁止のお達しも出たとか……。こんなことをしとる間にも、一大事の後生が迫っておると思うと居ても立ってもおられん。何とか早く助かる道はないもんかいのお、善鸞様」
そんな不安な人たちに、善鸞は「実は、父・聖人から自分だけが授かった秘密の法文(教え)がある。深夜、儀式によって与えるぞ」と言い触らし始めたのです。これは親鸞聖人の教えとは、異なることです。
なぜ善鸞は邪義を広めるようになったのか
善鸞は、親鸞聖人のご長男でありながら、なぜ間違った教えを広めるようになったのでしょうか。
善鸞も、当初は「仏法を誤りなく伝えてくれよ」の親鸞聖人のご期待に応えんと、真面目に布教していたはずでした。ところがそこへ幕府の弾圧や日蓮の出現で、親鸞聖人の教えを聞いていた人たちの心が大きく動乱したのです。聞いても聞いてもなかなか安心できず、何とか早く助かる道はないものか、という焦りから、人々の心に惑いが生じていました。善鸞とすれば、動揺する人たちを何とか安心させ、自分の元につなぎ止めておく〝何か〟が必要だったのです。
また「実子の自分こそが関東を束ねねばならない」という他のお弟子たちと関東布教の主導権を争う気持ちもあったでしょう。
そこで、ありもしない「秘密の法文」を捏造し、仏法をねじ曲げていったのです。私たちはここに、いつの時代も変わらぬ、人間の弱さや迷いを見ます。
教えを曲げることはもちろん、父・親鸞聖人に対する重大な裏切り行為です。それをあえて踏み切らせた善鸞の論理とは、何だったのでしょう。
それは権力者と手を組めば、いずれ堂々と布教できるようになる、だから決して悪いことではなかろう、という自己保身の論理でした。
(続き)
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